18 7月 2009

上越の親鸞聖人ゆかりの地を訪ねて(五智国分寺)

Author: monta | Filed under: 親鸞会もん太のどこまで脱線するの?

もん太@射水市民です。

いやぁ、ご無沙汰しております。すっかり更新が滞っておりましたが、いろいろと諸事情がございまして、もん太としてもボーッとしたり、居眠りしたり、食べたりと多忙を極めていたわけでございますね。そこに来て3連休ですが、皆さんもまとめてブログ更新していらっしゃるかと思いますので、もん太もご多分に漏れず3連休ライフらしくブログ更新をしたいと思います。

そんなわけで、なかなか上越の聖人御旧跡巡りリポートが終っていないのですが、続けて行きましょうかね。

前回「光源寺」の次は、これまた居多ケ浜に近い「五智国分寺」ですね。

五智国分寺の入り口です

五智国分寺の入り口です

居多ケ浜周辺は、結構、樹木がわさわさとしておりまして、自然豊かっぽいのですが、五智国分寺の門前もおしなべて緑が豊富なわけですね。その中にチラチラ見える、朱塗りの柵やら柱が、国分寺っぽさを演出しているようでございます。この入り口を入ってすぐに、どこぞで聞いた「救世観音像」が左手にあったりするのですが、「一向専念無量寿仏」の親鸞学徒なもん太はスルー……。写真にも撮ってございませんよ。

さて、入り口から参道を進んでいくと……、

五智国分寺の朱塗りの山門

五智国分寺の朱塗りの山門

五智国分寺の朱塗りの山門ですね。これ、結構デッカイですよ。天保6年(1835)に建立されたものだそうです。

この山門をくぐって、すぐ右くらいにそびえるのが、

この三重塔は未完成なんだそうです

この三重塔は未完成なんだそうです

三重塔ですね。実は、これまだ未完成なんだそうです。まあ、この辺も景観はいいんですが、今回の目的ではないので、詳しいことは調べずに通り過ぎました。そして、ずっと進んでいくと……、

山門を進むと平成9年に再建された本堂がある

山門を進むと平成9年に再建された本堂がある

結構、大きな五智国分寺の本堂がありました。だいぶ前に、ここを訪れた親鸞会の講師の方に聞いた時は「ガランとした空き地に、灰色の基礎石だけが並んでいたよ」ということで、何もなかったそうです。その時の写真を見ると、何もない本堂跡に、

「昭和六十三年一月、従来の本堂が不慮の火災のため焼失してしまいましたが、大勢の方々の御協力により本堂の再建をいたします。ここに皆様方のお力添えを切にお願い申し上げます。」

……と、「越後五智国分寺再建委員会」名義で立て看板が立っていた。本堂再建のための献金を募っていたようだが、さて、本堂を建ててどうするか?多額の財施を募って、立派な建物を建立しても、そこに「教え」が説かれていなければ意味がない。この本堂は、昭和63年に火災によって消失してしまたそうで、そこから10年近くかけて平成9年に再建されたものが、建っているらしい。

どんなに由緒ある建物でも、マッチ一本、線香一本の火で灰になってしまう。平家物語の冒頭でも知られるように、お釈迦様は「諸行無常」と説かれている。形あるものは、必ず滅びる。絶対に潰れないと思われていた世界的な大企業であってでも、昨今の大不況で姿を消しているのでもよく分かる。仏法者が守り伝えるべきものは、国宝や文化財ではなく、真実の教えであることが知らされる。

ここで、思い出されるのが、時あたかも五智国分寺本堂消失から5ヵ月後の昭和63年6月に行われた親鸞会の新本部会館落慶法要での高森顕徹先生ご講演だ。

「後生の一大事と比較するなら、こんな会館の百や二百、ものの数ではありません。マッチ一本で燃えてしまう。後生の一大事は、こんな会館の一万や二万ではない、大変なことなのです」

それまでの本部会館とは全く違う、鉄筋コンクリート造で大収容の白亜の新本部会館。しかし、それを建立するのが目的ではなく、そこで説かれる親鸞聖人の教えを聴聞し、人生究極の目的である後生の一大事の解決」こそ急がねばならない、と改めて目的確認をさせていただいたのでした。これは、平成17年に落慶した2000畳の正本堂落慶でも同じであり、現在拡大中の同朋の里法輪閣といった聞法ドメインの大事業でも同じ精神です。

立派な建物をどれだけ建てるかが問題ではなく、本当の親鸞聖人の教えを、正確に、迅速に、一人でも多くの方に徹底するかが問題で、その目的を果たすための種々の施設であることを何度も確認しなければならない。

ここを忘れると、上っ面だけを眺めて、施設拡大が真宗繁昌のように思ったりしてしまうのだ。真宗の繁昌とは如何なるものか?蓮如上人の言行録である「御一代記聞書」に、このように戒められている。

「一宗の繁昌と申すは、人の多く集り威の大なる事にてはなく候、一人なりとも人の信を取るが、一宗の繁昌に候。然れば『専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず』と遊ばされおかれ候」

一人でも多く、仏法を求める目的である信心決定することが浄土真宗の繁昌なのだとご教導くださるのだ。ならば真宗は、そのように繁昌するのかということについてもまた、蓮如上人は「御文章」にご教導くださっている。

「一。信心決定の人も、細々に同行に会合の時は、相互に信心の沙汰あらば、是れ即ち真宗繁昌の根元なり

信心の沙汰が大切なんだよと明言されている。正本堂で親鸞聖人の教えを聴聞させていただき、それを同朋の里や法輪閣などの聞法ドメインで“すぐに”語り合うことが大切なのだと教えてくださっている。「いやぁ~、よく聞けたよ」と調子よく聞けたと思っている人にも蓮如上人の厳しい一言が突き刺さる。

「一。仏法の由来を障子・垣越に聴聞して、内心に『さぞ』とたとい領解すというとも、重ねて人にその趣をよくよく相尋ねて、信心の方をば治定すべし。そのまま我が心に任せば必ず必ず誤りなるべし

「一。信心を獲たるとおりをば、幾度も幾度も人に尋ねて、他力の安心を治定すべし。一往聴聞しては必ず誤りあるべきなり

どれだけ、よく聞けたと思っても、「必ず」を2回も重ねて「それは誤っているのだぞ」と仰っている。いよいよ、聴聞をして、聞かせていただいたことを信心の沙汰で法友と語り合うことが大切だと知らされます。そんな時、信心の沙汰の場に行くだけ行って、他の人の言うことを聞いているだけの人に、また蓮如上人が厳しく、

「一。もとより我が安心の趣いまだ決定せしむる分もなきあいだ、その不審をいたすべき所に、心中を包みて有の儘に語らざる類あるべし。これを責め相尋ぬる所に、有の儘に心中を語らずして、当場を言い抜けんとする人のみなり。勿体なき次第なり。心中を遺さず語りて、真実信心に基くべきものなり

と、「勿体ないことだぞ」と仰っています。蓮如上人の時代の吉崎御坊や山科本願寺などといった聞法ドメインは、ありのままに心中を語る信心の沙汰で花が咲いた仏法都市であったに違いありません。親鸞会の聞法ドメインにして然り。「皆々、信心決定あれかし」の歴代善知識方の御心そのままに、一人でも多くの人が信心決定の身に救われるための事業であることがよく分かります。

……あ、長くなりましたね。

ちなみに、山門から本堂への道中には、松尾芭蕉の句碑が建っています。

五智国分寺敷地内にある松尾芭蕉の歌碑

五智国分寺敷地内にある松尾芭蕉の句碑

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」

この有名な句碑が、小さな池のほとりにありました。昔、見たマンガに、カツラ屋さんの話があって、

「古い毛や 買わず飛びこむ 水の音」

……とかパクッってあったのを思い出しました。いや、まあ、どうでもいいんですけどね。

さて、この五智国分寺。この親鸞聖人ゆかりの地シリーズで何で取り上げたのかっていいますと、

上越で最初に住まわれたといわれる竹之内草庵跡

上越で最初に住まわれたといわれる竹之内草庵跡

流刑の親鸞聖人が居多ケ浜に上陸されて、最初に住まわれたといわれる「竹之内草庵跡」があるからです。五智国分寺の本堂のちょっと右奥にありました。居多ケ浜記念堂で求めた「流罪の親鸞聖人」には、

「藤井善信は、越後の国頸城郡郡司荻原民部少輔年景の下に届けられ、やがて出来た粗末な小屋に移られた。これが竹の内草庵である(「流罪の親鸞聖人」P11より)

……とある。

藤井善信とは、親鸞聖人が流刑の時につけられた罪名である。「竹の内」とは「館の内」ということで、親鸞聖人を預かった年景の館の内にあったから竹の内草庵と言われるらしい。

その竹之内草庵跡には、他のどの御旧跡よりも大きな親鸞聖人の銅像が立っていた。

竹之内草庵跡には巨大な親鸞聖人の銅像

竹之内草庵跡には巨大な親鸞聖人の銅像

「境内、竹の内草庵近くに親鸞聖人旅姿の大きなコンクリート像が立つ。広瀬精一氏の寄贈であるが、当初ブロンズ像で寄贈されたが戦時中に供出されてしまった。戦後広瀬氏が、その事を知り自分の車を売って、残っていた鋳型にコンクリートで作って再度寄贈されたものである。この旅姿の像の原型は光源寺の宝物の中にある小さなお木像である(「流罪の親鸞聖人」P12より)

……ということらしい。親鸞聖人のお姿を雨ざらしにしておくのも酷い話なのだが、その親鸞聖人の銅像を戦時中に武器製造の原料とするために、軍へ供出したとはとんでもない話だ。全人類が、平等に救われる道を教えられたのが親鸞聖人。その親鸞聖人の像を溶かして、人殺しの武器にするとは!

ここでまた、戦時中の浄土真宗の自殺行為が思い出される。浄土真宗で最も重要な「教行信証」にこのような一文がある。

「主上・臣下、法に背き義に違し、忿を成し、怨を結ぶ。(「教行信証化土巻」より)

「天皇から家臣にいたるまで、仏法に反逆し正義を蹂躙し、怒りにまかせて見当違いの大罪を犯す。ああ、なんたることか」

意外と知られていない親鸞聖人の越後流刑の真因は、一切の諸仏、菩薩、諸神を捨てて、“阿弥陀仏一仏に向かえ”という、「一向専念 無量寿仏」の釈迦の本懐の強調が、最大の理由であった。とくに諸神の排斥は、社会の秩序をみだす悪魔として、日本を神の国とする権力者や、それらと結託する者たちの逆鱗に触れ、死刑になるところを、関白九条公の工作によって御流になったといわれる。

この烈々たる批判のお言葉は、身勝手な後鳥羽上皇らによって、恩師・法然上人が流刑になり、法友らが死罪になったときの、怒りの爆発である。この親鸞聖人の命がけの一文が、ある時期、教行信証から削除されたことがある。それが戦時中なのだ。

当時の浄土真宗は皇道真宗と名乗って戦争協力しました。先述のとおり「一向専念 無量寿仏」のお釈迦様の至上命令に従い、阿弥陀仏一仏に向かうのが浄土真宗です。そのため、「一向宗」と呼ばれることさえありました(一向一揆って日本史で聞いたことありますよね?)。それが浄土真宗の命でありますが、当時の本願寺の法主が伊勢神宮に参拝したということがありました。まさに、真宗の自殺行為ですね。

親鸞聖人の銅像が戦争に供出され、人殺しの武器にするのも許されませんが、戦時中、親鸞聖人が一字一涙で書かれた教行信証の一文を保身の為に削除し、法主による伊勢神宮参拝という一向専念無量寿仏の破壊。聖人が最も悲しまれることでありましょう。今になって戦争協力の当時の体制を謝罪することはありますが、教えの破壊に対する謝罪は聞きません。今でさえ、阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩・諸神を安置し、拝ませている真宗寺院があるくらいですから、罪の意識はないのでしょう。教えこそ守らねばならないんですけどね。

さて、その親鸞聖人の銅像の下には、

親鸞聖人の銅像の下には「親鸞聖人腰掛石」

親鸞聖人の銅像の下には「親鸞聖人腰掛石」

「親鸞聖人腰掛石」というものがありました。確かに、ちょうど座りやすそうな高さと形状の石です。

流罪人という自由のきかない身でありながらも、その束縛に負けずに越後を布教に歩かれ、弥陀の本願徹底にご苦労されたのだと偲ばずにおれなかった。そんなご布教の合間に休まれたのだろうか?真宗界では、親鸞聖人750回大遠忌と力を入れている。そこに合わせて、建造物を建てたり補修したり、行事が行われたりして人が集まります。門徒より財施も寄せられることもあるでしょう。それそのものは悪いのではないのですが、その建物で何が行われるか、行事で何がなされるか、財施が何に使われるかが大事なんです。それこそ教えの徹底ですね。

今こそ、本当の親鸞聖人の教えを徹底しなければと親鸞学徒の一人として思うのでした。

長くなりましたが、「竹之内草庵跡」まだ続きます(汗)。

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