もん太@射水市民です。
「射水市の親鸞会メンバーによるブログ」という立場上、射水市関連のことを書かなければならないようですが、もん太が執筆しているものに関しては調子こいて、上越の旅日記を書いてしまっているようです。
まあ、カテゴリーが、
「もん太のどこまで脱線するの?」
ですから、この際、気にしないようにしていただければ幸いです。
そんなわけで、「上越の親鸞聖人ゆかりの地を訪ねて」シリーズを続けているのですが、なんやかんやと居多ケ浜探訪を終らせまして、予告していたアレに行ってみましょう!そう、「親鸞聖人越後七不思議」の1つ、
片葉の葦!
まあ、この際ですから七不思議というからには、7つあるわけでして、その7つを列記しますと……、
- 保田の三度栗 (阿賀野市)
- 田上のつなぎ榧 (田上町)
- 小島の数珠掛桜 (阿賀野市)
- 小島の八房の梅 (阿賀野市)
- 山田の焼鮒 (新潟市)
- 鳥屋野の逆竹 (新潟市)
- 国府の片葉の葦 (上越市)
……といったところですね。1番目から6番目までは、結構まとまった場所にあるんですが、7番目の片葉の葦だけは上越市ということで結構離れているんですね。居多ケ浜記念堂でタダでくれるプリントには、この簡単な説明が書かれている。
それで、前回紹介した「居多ケ浜記念堂」の裏や「見真堂」の脇には、この片葉の葦が群生していた。

居多ケ浜記念堂の裏に生い茂る片葉の葦
鬱蒼と生い茂る葦なのだが、これらが柵で囲われている。先に来ていたバスガイドさんが「あら~、今年は両葉の葦だわねぇ~」とガッカリしておられた。確かに、クローバー畑で四葉のクローバーを探すようにしないと、「これは片葉!」と明言できるような「片葉の葦」にお目にかかれない。
それでも、見真堂の周囲には、誰がどう見ても「片葉の葦」というものが生えていた。

見真堂の脇に生えていた片葉の葦
ちなみに、この片葉の葦は居多ケ浜周辺にはチョコチョコと生えているようだ。ちょっと車を走らせたところにある「居多神社」の門前にも、

居多神社前に鬱蒼としていた片葉の葦
ただ、こちらも柵で囲われているものの、イマイチ片葉っぽくない。
……が、柵からチョロリとはみ出ている葦が「片葉の葦」っぽかった。

柵から逃げ出そうとしているような片葉の葦
バスガイドさんの言うように、今年はどうも片葉が両葉になってしまっているような気がする。
さて、ここで片葉の葦について、当時の親鸞聖人を慕った越後の人々の想いが伝わってくる話があるので紹介したいと思う。
親鸞聖人が「流刑」となった承元の法難から5年後、親鸞聖人の「流罪」が解除になった。冤罪が晴れ、自由の身になられたのである。
この時、土佐へ流刑になっておられた師匠の法然上人も、京都へ戻っておられた。
「恩師・法然上人はお元気だろうか。今はもう80歳になられたはず。急がねば、今生でのお目通りはかなわぬかもしれぬ……」
親鸞聖人は、京都へ向かおうとされた道中、法然上人がお亡くなりになったおちう知らせが届き、愕然とされた。
「都行きは……、やめる。お師匠様のおられない京都には、親鸞、何の未練もない。
まことの仏法を踏みにじり、無法な怒りで、お師匠さまを流刑にし、住蓮房、安楽房の首をはねた者どものいる都だ。親鸞、何の未練があろうぞ。
東国へ行く!関東で、阿弥陀如来の本願を、力一杯、お伝えしようではないか」
親鸞聖人は、新たな布教に旅立たれた。
権力者の無法な束縛から解放された聖人にとって、もはや、行く手を阻むものはない。叫ばずにおれない、伝えずにおれないと、精力的な活動を開始されたのである。
越後でご教化を受けた人々にとって、聖人との別れは、大変辛いものであった。心から敬慕し、名残を惜しむ人々の心情が、海辺の葦にまで通じ、奇瑞を起こした。すなわち、葦はみな関東の方角へなびき、葉も片側だけとなって、別れの辛さを表したという。
葦はススキに似た背の高い植物だ。本来、細い茎の両側に葉がついているのに、片側だけになっている。科学者は“突然変異”と片付けるだろう。しかし「片葉の葦」に託した人々の心情は真であり、切々と伝わってくるものがある。
このことは、昨日の記事でも紹介した小冊子「流罪の親鸞聖人」にも記述があったりするので、少し紹介しますと……、
「親鸞聖人が七年後に関東に向かわれたときに、聖人のみ跡を慕って、葦が関東の方に向かって合掌されたという言い伝えもある。
実際の所は西風の影響が強くて葉が片方に寄ったのではないかと思われるのであるが、その位親鸞聖人は大変な所に流罪になった事を意味するのではないだろうか。
冬の西風は本当にすごい。この地では雪は下から降ると言われている。雪は地吹雪となって何も見えなくなって吹き付け、屋根など吹き飛ばしてしまいそうである。隙き間があればそこから雪が吹き込んでくる。そして一本の白い雪の線が家の中にできる。
山の斜面に生える木は全て根元で曲がっている。新芽が出た後、雪で押さえつけられて寝てしまうが、春になって、そこからまた伸びてくる。だから根元で曲がった木になってしまう。細い木も太い木も同じである。権力者によって弾圧された親鸞聖人が、そこから力強く立ち上がり念仏の教えを私たちに伝えて下された。そのご苦労を偲ぶに余りある片葉の葦の姿である。(「流罪の親鸞聖人」P7より)」
……とのことだ。
いずれも、当時の越後の人々が関東へ旅立たれる親鸞聖人を想う気持ちが伝わってくる。その気持ちが、あまりに強く葦に伝わり片葉に変えてしまったのかもしれない。
そう思うと、片葉が少なくなり、両葉になりつつあるのはどういうことか?
今の真宗界の、親鸞聖人に対する想いが表れていないだろうか?先の「流罪の親鸞聖人」に書かれているように、権力者に弾圧され、決して自由に布教活動ができない中でも力強く立ち上がってご布教くだされたその「教え」をどれほどの人が聞いているのだろうか?そして、伝える寺は、どれほど正しく伝えているのだろうか?伝説ばかりを有り難く伝え、その伝説の底にある親鸞聖人の教えが、伝わっていないのではないだろうか?つまり、親鸞聖人に対する想いが薄れているのではないかと思うのだ。
親鸞聖人が流刑にあわれ、「これなお師教の恩致なり」と微笑まれ、越後に上陸されて布教活動をされた時、どれだけ力の限り話しても耳を傾ける人はいない。その時の心境を詠まれた歌が、
「この里に 親をなくした 子はなきか
み法の風に なびく人なし」
……であるが、今の真宗界をご覧になられてのお歌のように思われてならない。
それだけに「片葉の葦」が「両葉の葦」になりつつあるのは、現在の人たちの聖人の教えに対する想いのように思われてならない。
「どんなに苦しくても、なぜ生きなければならないのか」という「人生の目的」を生涯かけて徹底していかれた親鸞聖人。この教えは、平成の現在でも全人類が求めている教えであることは間違いない。
新興宗教やカルト宗教が蔓延しているため、現代人の宗教偏見は酷いものだ。その勢いでか、仏教離れも酷い。しかし、本当の仏教は葬式や法事を教えられたものでもなければ、死人に用事のある教えでもない。生きている私たちに絶対に必要な教えなのだから、
「仏教はなぜ聞かねばならないのか、ではなく、仏教を聞くために生まれてきた」
と言われる。
必死になって勉強や仕事をするのも、医療なら1分1秒でも命を延ばすのも、生きるため。では、なぜ生きるのかということになると、誰もスッキリと回答できないでいる。この根本問題にハッキリと「今生で完成のある人生の目的」を明示してくださったのが親鸞聖人だ。科学が発展しようが、人類が必要としているテーマではないか。誰もが知りたいテーマだから、聖人の時代の人々も片葉の葦の如くに、聖人の所へと集まってきたのだ。
今のような時代だからこそ、片葉の葦のように親鸞聖人の教えに向かいたいものである。
ツッコミ大歓迎!