もん太@射水市民です。
親鸞会には、同朋の里や法輪閣などの聞法ドメインがあって多くの親鸞学徒が光に向かって進まれていますが、浄土真宗の中興上人である蓮如上人の時代にも当時の親鸞学徒の手によって多くの聞法ドメインが築かれていました。その中でも、北陸人間のもん太にとって実に親しみがあるのが「吉崎御坊」ですね。
実は、この吉崎御坊は、顕真学院のすぐそば!北潟湖畔を進んで行けば辿り着いてしまうんですね。
そんなわけで、顕真学院の桜を撮りに行ったついでに、吉崎御坊跡に行ってきました!
……というわけで、吉崎御坊跡なんですが、北潟湖畔にぽっこり盛り上がっている台地の上にあったんだそうです。
蓮如上人は、御文章などで親鸞聖人の教えを弘められ、一代で日本最大の仏教教団にされたということで「中興上人」と言われています。ただ、それまで他宗の信者だった人たちも、蓮如上人のもとへ集まったため各宗派の妬みはひどいもので、蓮如上人はお命を狙われていたんだそうです。そうして、蓮如上人が追われるようにして辿り着かれたのが吉崎だったんですね。
御文章に、
吉崎というこの在所、すぐれておもしろき間、年来虎狼の棲みなれしこの山中をひき平らげて、七月二十七日より、かたの如く一宇を建立して、昨日・今日と過ぎ行くほどに、はや三年の春秋は送りけり。(御文章1帖目第8通「大津三井寺」より)
とあるように、当時は、虎や狼が住むと言われた吉崎でしたが、蓮如上人がここに御坊を建立されて親鸞聖人の教えを説かれるや、全国から親鸞学徒が群参し聞法されたようです。
別の御文章には、
この山のことを沙汰し申しけるは、「そもそも、このごろ吉崎の山上に一宇の坊舎を建てられて、言語道断おもしろき在所かな」と申し候なかにも、ことに加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州七箇国より、彼の門下中、この当山へ、道俗・男女参詣をいたし、群集せしむる由、その聞えかくれなし。これ末代の不思議なり、唯事とも覚えはんべらず。(御文章1帖目第7通「弥生なかば」より)
とありますが、北陸はもとより長野や東北地方からも参詣していたことが分かります。
そして、帖外御文には、
頂上を引くずして屋敷となして、一閣を建立すときこえしが、幾程なくして打つづき加賀、越中、越前の三ケ国の内の、かの門徒の面々よりあいて、多屋と号して、いらかをならべて家をつくりしほどに、今ははや、一、二百間の棟かずもありぬらん、とぞおぼえけり
とありますように、親鸞学徒の手によって建てられた多屋(お弟子や末寺の出張所と門徒の宿泊所を兼ねた建物)と呼ばれる建物が立ち並び、瞬く間に仏法都市へと発展したことが分かります。まさに、仏法力不思議としか言いようがありませんが、蓮如上人は何か変わったことを教えられたのでしょうか?
別の帖外御文には、
これ偏に末代今の時の罪ふかき老少、男女において、すすめきかしむるおもむきは、なにのわづらいもなく、ただ一心一向に弥陀如来をひしとたのみたてまつりて、念仏申すべし、とすすめしむるばかりなり。
とあるように、「阿弥陀仏の本願に救い摂られる以外に、我々が幸福になれる道はない。阿弥陀仏一仏に向かいなさい」と親鸞聖人が教えられたままを教えられただけでした。蓮如上人が親鸞学徒の鑑と言われるゆえんであります。
その頃の話は「蓮如上人と聞法ドメイン・吉崎御坊編(親鸞会.NET)」をご覧ください。
さて、吉崎御坊の駐車場へとやってきました。
国道沿いにある駐車場から目立つのが「念力門」。傍らに「蓮如上人御旧跡」の石標がありました。
これをくぐって、吉崎御坊跡へ行くにはどうしたらいいものかと、途方に暮れて(?)右往左往していると目に入ったのがコレ!
有名な「嫁威し肉附の面」伝説を表した展示ですね。
このことについてのお話は「嫁威し肉附の面(福井)」に書かれていますが、途中までですので、その後のこの場面のお話を紹介しましょう。
夫と二人の子供に先立たれた清は、後生の一大事の解決めざし、聞法に励むようになったのである。
「立所に信心決定して無二の信者となりき」と『願慶寺縁起』に記されている。
一方、清の姑は大の仏法嫌いで、わが子と孫に先立たれても、少しも無常に驚かなかった。それどころか、嫁が毎晩のように吉崎へ聞法に通うのを腹立たしく思っていた。
なんとか参詣の邪魔をしようと、法話の日に、「嫁よ、この一升の米を、今夜中に粉にしてくれ」と、臼ひきの仕事を与えた。
ところが、仏法聞きたい一心の清は、黙々と臼ひきに励み、たちまち仕事を終えて聴聞に出かけてしまった。
「一升では少なかったわい」
姑は、次の日、倍の量を与えた。だが、それも清の強い聞法心の前には障害にならなかった。何の力か、不思議と仕事がはかどって、吉崎へ向かうのであった。
「とても、臼ひきぐらいで聞法を止める嫁ではないな。何かいい方法はないだろうか」
と、姑は思案にくれる。
「そうだ。鬼に化けて、吉崎へ向かう途中で威してやろう。恐ろしくて腰をぬかし、二度と、夜道を出歩かなくなるだろう」
と思い立った。
翌日、姑は、家に代々伝わる鬼の面をつけ、白装束に身を固め、人気のない淋しい谷に隠れた。
やがて、一日の仕事を終えた清が、法話に遅れてはならないと、念仏を称えながらやってきた。
突然、暗闇から、
「こりゃ、どこへ行く。お前の命はもらったぞ」
と、鋭い鎌を手に、白髪をふりみだした鬼が躍り出た。
しかし、清は動じずに、
「はまばはめ 食わば食え 金剛の 他力の信は よもやはむまじ」
と口ずさみ、念仏称えながら、吉崎への道を急いで行った。
あてがはずれた姑は、嫁が帰る前に我が家に戻って面を取ろうとしたが、どうしたことか顔にひっついて離れない。無理に取ろうとすれば肉が剝がれるような痛みが走る。
そのうちに、嫁が帰ってきた。清が家に入ると、なんと、先ほどの鬼がいるではないか。
驚く清に、姑は泣きながら、
「嫁よ、わしだ。許してくれ。鬼の面が取れなくなってしまったんじゃ。助けてくれ」
と、ありのままに、清に打ち明けた。
「まあ、お母さまでしたか。大丈夫ですか」
清も力を尽くしたが鬼の面は取れない。
清は、蓮如上人にお願いするしかないと、姑を連れて、吉崎へ向かった。
蓮如上人は、苦しむ姑に、どんな人でも必ず助け給う阿弥陀仏の本願を懇ろに説かれた。初めて聞く真実の仏法の素晴らしさに、姑は、これまで、嫁の聞法の邪魔をしてきたことを心から懺悔した。すると不思議にも、鬼の面は、ぽろりと落ちたという。
……と、これがこの伝説のお話です。
さて、清が詠んだ「はまばはめ 食わば食え 金剛の 他力の信は よもやはむまじ」の歌は何を意味するのでしょうか?
意味としては「この肉体を食べたければ食べるがいい。しかし、私が阿弥陀仏から賜った信心は金剛心だから、いくらお前でも歯が立つまい」ということになります。
親鸞聖人がご和讃に
「真心徹到するひとは 金剛心なりければ(高僧和讃)」
と「阿弥陀仏に救い摂られ、真実信心を獲た人は金剛心になる」と教えられた通りですね。
そして、仏法を謗り、嫁の聞法を邪魔した姑の顔から鬼の面が取れなくなったという伝説は、謗法罪の恐ろしさを表しています。
謗法罪とは、真実の仏法を謗り、ネジ曲げ、破壊する罪を言います。
すべての人は、不幸を厭い、幸福を求めて、必死に生きています。その全人類の願いをかなえられる唯一の道が、真実の仏法である。
聖徳太子は、有名な十七条憲法に「仏教は四生の終帰、万国の極宗」と喝破されました。「生あるもの総ては、最後は仏教にこなければ絶対に助からない。全人類が信奉しなければならぬ唯一無二の教法が仏教だ」と仰ったものです。
親鸞聖人は「唯仏一道きよくます」と道破され
「その他には何れの法を信ずというとも、後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず(御文章5帖目第19通「末代悪人女人」)」
「末代の凡夫、助かる道、二つも三つも有るべからざるものなり(御文章2帖目第8通「本師本仏」)」
と断言されたのは蓮如上人でありました。
地獄へ沈むか、絶対の幸福に生きるか、全人類の運命が仏教にかかっている、と真に理解できれば、仏法を謗り、破壊することは、まさに全人類を不幸に追いやり、地獄に突き堕とす大罪であると知らされてきます。
嫁威しの姑は、この恐ろしい謗法罪をつくり続けていたのです。まさに、嫁を地獄へ追い立てる鬼の所業でありました。
「先車の覆りは後車の誡、とかや、かかる謂を聴聞して日頃の悪心を翻し、仏法にもとづくこと肝要なり(願慶寺縁起)」
と諺を引いて、人の過ちを繰り返すな、と結んでいます。謗法罪の恐ろしさを教えることが、嫁威し伝説の題目だったわけですね。
ところが、その嫁威し肉附の面があると言われる願慶寺では、
という感じで、拝観料を取ってお面を見せているんだとか。まあ、これでその謗法罪の恐ろしさを伝えていれば、まだしもそういうことは説かれていないようですね。ぜひともそういうことを有縁の方々に伝えてもらいたいものです。
長くなりましたが、吉崎御坊へと登って行きましょう。
細い道を登って行くと「史跡 吉崎御坊跡」の石標が。
これを過ぎると、急に開けて……、
こんな感じです。松がたくさん立っているのですが、この時は顕真学院に負けじと桜が咲き誇っていました。
吉崎御坊は何度か焼き討ちにあっていますが、本堂のあった場所がここ。
ここで蓮如上人が法を説かれていたんですね。
この吉崎御坊跡でひときわ目立ったのが、
高村光雲作の蓮如上人像。高い台座が用意され、その上に蓮如上人の銅像が立っていました。しかし、雨ざらしで雨筋が出ています。
さて、その先には素晴らしい展望が開けていました。
手前が北潟湖で向こうが日本海!
快晴に加えて桜も満開で絶景でしたね。蓮如上人もここからの景色を眺められて、親鸞聖人の教えを徹底されたんでしょうね。
最後に、吉崎御坊といえば嫁威し伝説と並んで有名なのが、蓮如上人のお弟子の本光房了顕ですね。その本光房了顕のお墓がありました。
本光房了顕は、吉崎御坊が大火で消失した際に、命がけで親鸞聖人直筆の教行信証の証巻を護ったということで有名ですね。詳しくは「不審火で吉崎炎上(浄土真宗親鸞会 滋賀のみやこ)」をご覧下さい。
願慶寺前に法宝物館があり、そこにいろいろと展示してあるのですが、その中に「火中投身殉教僧本光房了顕師真像」というものがあるようです。親鸞学徒の宝と言えば「南無阿弥陀仏」の御名号でしょ、と言いたいところですが、この本光房了顕の殉教を通して、恩徳讃の心を伝えてもらいたいと思うのでした。












4月 28th, 2010 at 4:09 PM
[...] This post was mentioned on Twitter by rudolf, 親鸞会なう♪. 親鸞会なう♪ said: 顕真学院から吉崎御坊へ“はしご花見”ぢゃ! – 浄土真宗親鸞会 イミズム http://bit.ly/cimkrw #twitbackr [...]