8 6月 2011

安楽寺で承元の法難の真因を考える

Author: もん太 | Filed under: 親鸞会もん太のどこまで脱線するの?

もん太@射水市民です。

先日の土日に親鸞会で降誕会が勤められ、高森顕徹先生より親鸞聖人が書き残された「恩徳讃」についてのご説法を聴聞させていただきました。

親鸞聖人90年のご生涯を貫く心が、まさしく恩徳讃なのですが、その時に聖人の越後流刑のお話がなされたので、4月に京都へ行った時に寄った「住蓮山 安楽寺」のことを思い出しました。

以前に当ブログで親鸞聖人が法然上人のお弟子となられた時に住まわれていた岡崎草庵跡である岡崎別院に行ったという記事を書きましたが、その時の記事をご覧になれば分かられるように大変に分かりにくい場所なんですね。それで、何となく岡崎別院に行こうと自転車をこいでいたところ、いつの間にか銀閣寺周辺の哲学の道を走っておりまして、辿り着いてしまったのが、

住蓮山 安楽寺(Photo by 親鸞会)

岡崎別院に行くつもりで、いつの間にか到着していた安楽寺

この「住蓮山 安楽寺」なんですね。

写真にもあるように「浄土礼讃根源地」という石標が建っています。

更に、こんな立て看板もありました。

安楽寺の説明(Photo by 親鸞会)

門前には京都市による安楽寺の説明が書かれた立て看板があった

安楽寺

住蓮山と号し、浄土宗の寺院である。

鎌倉時代の初め、現在地より東1キロメートルばかりのところに、法然上人の弟子住蓮房、安楽房二僧が念仏道場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま後鳥羽上皇の官女松虫・鈴虫両姫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり上皇の立腹をうけ「念仏停止」の宣下によって二僧は死刑、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へと配流された。

これがいわゆる建永2年(1207)の法難であるが、下って室町時代の末、天文年間(1532〜1555)二僧の供養のため伽藍をこの地にこの地に再興したのが当寺である。

本堂には本尊阿弥陀三尊像を安置し傍に住蓮・安楽両上人・松虫・鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。また、境内右手に住蓮・安楽両房の五輪石塔、東方山林中に松虫・鈴虫両姫の五輪石塔がある。

京都市

……ということですが、ここで起きた鈴虫・松虫事件が導火線となって承元の法難となった。

京都市による看板にもあるように、ここは法然上人のお弟子であり情熱的な布教家であった住蓮房、安楽房の2人が開いた寺である。

法然上人が吉水草庵で阿弥陀仏の本願を説かれるようになると、水は高きから低きに流れるように、今まで聖道諸宗だった人々が次々と法然上人のもとへ参詣するようになった。それを見ていた旧仏教の者たちが面白くない。

真っ先に攻撃の矛先を向けて来たのが比叡山・延暦寺である。一切の布教活動の停止を求め、強訴も辞さぬ勢いである。

さらい、当時の仏教界を代表して、興福寺の僧・解脱貞慶は、朝廷へ、法然上人ら吉水教団の撲滅を願い出た。有名な「南都の奏状文」である。「興福寺奏状」とも言われ「立新宗失」「図新像失」「軽釈尊失」「妨万善失」「背霊神失」「暗浄土失」「誤念仏失」「損釈衆失」「乱国土失」といった9か条の避難を列記している。

分かりやすいものでは「法然らは、阿弥陀仏だけを信じて供養し、釈迦牟尼仏を礼拝供養しないのは本末顛倒もはなはだしい」「日本では、古来、仏教と神道とは固く結びついているにもかかわらず、法然らは『もし神を拝めば必ず地獄に堕ちるぞ』と言いふらし、世人を迷わせている」「念仏者たちは、他の諸宗と敵対し、我々と協力しようとしない」といったことだ。

そして、最後に「このたびのように全仏教徒が一丸となって訴訟するという前代未聞のことを致しますのは、事は極めて重大だからであります。どうか天皇のご威徳によって念仏を禁止し、この悪魔の教団を解散し、法然と、その弟子たちを処罰していただきますようおそれながら申し上げます」と結んでいる。

一方、朝廷にあっては九条兼実公はじめ、法然上人支持派の運動で、なんとか穏便に処理されていた。しかし、反対派は常に弾圧の機をうかがっている。そういう緊迫した空気の中、突発したのが松虫鈴虫事件であった。

安楽寺の山門(Photo by 親鸞会)

石段の上に山門が見える。秋には紅葉の絨毯になる名所らしい

後鳥羽上皇に仕える女官の松虫・鈴虫は、住蓮房と安楽房の説法を聞き、一大事の後生に驚き、宮仕えの合間をぬって続けて聞かずにおれなくなった。しかし、後生の一大事が知らされれば知らされるほど、自由に聞法できない立場が恨まれる。

ある夜のこと、上皇は熊野へでかけて留守となった。仏法を聞きたい一心で2人は住蓮・安楽を頼って必死に鹿ヶ谷へ向かったのである。そんな夜中に男2人しかいない山荘へ彼女たちを入れるのははばかられた。しかも、上皇の寵姫である局が人目を忍んで山荘へ来たというだけでも重大な事件である。御所では、念仏停止の是非を論ずる評議が続いている。もし、このことが知れ、評議が不利になれば、法然上人の身に、どんな危害が及ぶか知れない。

最初はためらっていた住蓮と安楽であったが、自分たちが独断でやったことと「求める人あらば、命かけて法を説け」の法然上人の仰せに従って、松虫・鈴虫を招き入れて明け方まで説法をしたのだ。

しかし、このことが明るみになり烈火の如く怒った後鳥羽上皇は、即刻、住蓮房と安楽房を捕らえ六条河原で処刑したのだった。

さて、弾圧の真因は何であったのか。

安楽寺の境内(Photo by 親鸞会)

平日は「拝観謝絶」の看板があって境内に入る事ができない

松虫鈴虫事件は念仏停止の口実に利用されただけで、親鸞聖人の肉食妻帯が真因でもない。

親鸞聖人以前にも妻帯している僧侶はたくさんいた。当時、“かくすは上人、せぬは仏”という言葉が流行していたように、公然の秘密だったのだ。しかし、それらの僧侶は親鸞聖人のような激しい迫害は受けていない。つまり、真因は別にあるのだ。

聖人流刑の真因は、釈迦の仏教の結論である「一向専念 無量寿仏」の高調だった。真実の経典『大無量寿経』の結びを表す仏語であるが、阿弥陀仏一仏を信じよという釈迦の至上命令である。そうなると、阿弥陀仏以外の一切の諸仏、諸菩薩、諸神に近寄るな、礼拝するな、信ずるなということになり、それらに礼拝している諸宗からすれば、その実践は最大の脅威であったのだ。

親鸞聖人はそれほど厳しく「一向専念 無量寿仏」を強調されたことがよく分かる。

しかし、本願寺の親鸞聖人750回忌に行ってみると、前後に京都の御旧跡巡りをするのだが、平気で諸仏、菩薩、諸神に手を合わせている真宗門徒を見かける。誠に情けない限りである。

親鸞会では、この教えをハッキリと示して聞かせていただいております。

親鸞聖人が流刑に遭われてまで徹底された一向専念の教えを多くの方にお伝えせねばと思うのだった。

ではでは。

Tags: , , ,

ツッコミ大歓迎!