9 8月 2011

親鸞会で知る「生きる意味」

Author: もん太 | Filed under: つぶやき

もん太@射水市民です。

取り急ぎ、当記事には虫の写真が出てきますので、昆虫が苦手な方はご遠慮いただくようお願い致しますm(_ _)m。

さて、8月も中旬に入ろうとしていますが、毎日が猛暑で熱中症で倒れる人も増えているようです。皆さん、水分補給など、しっかりとして熱中症の被害に気をつけましょう!

……で、冒頭に予告していた昆虫ですが、夏といえば虫ですよね。カブトムシやクワガタのように、わざわざ採集に行く虫もあれば、ハエや蚊のように、嫌われている虫もあります。なんせ、夏は虫にとっては過ごしやすく、どこに行っても何かしらの虫に遭遇することと思います。

そんな、虫大放出の夏に親鸞会の駐車場に停めた愛車の下を見てみると……、

駐車場のセミ(Photo by 親鸞会)

親鸞会の駐車場で、もん太の車の下に落ちていたセミの死骸

セミの死骸が転がっており、風が拭くたびにカサカサと音を立てて飛ばされていきました。

人間なら、死ねば遺族の手によって丁重に扱われ、夏なら腐敗しないようにドライアイスで冷やし、綺麗に着飾らせたりしているのに、このセミの死骸など誰も気に留めず、写真を撮っているもん太にビックリする人がいる程度。まるで、ゴミのような扱いだ。

しかし、このセミにも親があり、ある日、この世に生まれ、地中で大きくなって、

セミの抜け殻(Photo by 親鸞会)

親鸞会の同朋の里で見つけたセミの抜け殻。持ち主は何処?

ほど良くなったら地上に這い出して脱皮をして、どこかへと飛び去っていったわけです。

そして、

セミ(Photo by 親鸞会)

夏といえば存在感いっぱいに鳴き続けるセミなのだが……

どこかの木にしがみついて樹液を吸い、存在感たっぷりの大音量で鳴き続け、パートナーを見つけて子孫を残し、

そして、

セミの死骸(Photo by 親鸞会)

このセミの生涯が如何にドラマチックであったとしても知る者はいない

誰に看取られる事なく、身体だけを残して、この世を去っていった。

私たち人間が幸せを求めて精一杯生きるように、セミの彼も彼なりに、セミなりの幸せを求めて生きたに違いないが、彼がどの両親からどこで生まれて、どんなセミと出会って、どんな子孫を残したなど知る者はいない。

所変わって、同じ親鸞会の別の車の下にも何かが落ちていた。

駐車場のトンボ(Photo by 親鸞会)

同じく親鸞会の駐車場に落ちていたトンボの死骸

トンボの死骸だ。セミより広がった羽のせいか、少しの風でカサカサと舞っていってしまう。そう、命があるかのように。しかし、そこにあるのは、とうに命の尽きたトンボの死骸だ。

このトンボも、どこかしらの水辺で生まれ「ヤゴ」として成長し、

トンボの抜け殻(Photo by 親鸞会)

親鸞会の七宝の池で見つけたトンボの抜け殻。持ち主は何処?

水中から陸上へと出てきて脱皮し、どこかへと飛んでいったに違いない。抜け殻だけを、そこに残して。

池やせせらぎなどの水辺が多い、親鸞会の同朋の里には多くのトンボが飛んでいる。

トンボ(Photo by 親鸞会)

同朋の里を所狭しと飛び回るトンボなのだが……

これらのトンボも、七宝の池か浄楽の池か、ダムで生まれ飛んでいるのだろう。

だけど、何を求めて……?

トンボの死骸(Photo by 親鸞会)

このトンボがどこを飛び、何を見たかなど知る者はいない

必ず、この乾ききった死骸となったトンボのようになるのに。

セミとして生きるか、トンボとして生きるか、人間として生きるかの違いはあっても、どこかで生まれた者は必ずどこかで息絶えていく。100%確実な未来だ。

その間、どこの優秀な大学に進学しようと、どんな一流企業に勤めて豊かな生活を手に入れても、どんなステキな配偶者と結婚して、孝行な子供に恵まれたとしても、豪勢な邸宅を建てたとしても、乾ききった死骸となったセミやトンボのように、自分の身体さえも置いて後生へと旅立っていかねばならない。

一生で、何をしたかなんて数年すれば誰も知らないし、その人がいなくても世間は何事もなかったのように回っている。自分の先祖にしたって祖父母の一生すらロクに知らない。そして、昨日から今日、今日から明日へと時だけが流れていく。

一体、

何のために生きているのだろうか?

やがて死ぬのに、生きる意味はあるのだろうか?

自分の肉体すら焼いていかねばならないが、その人の生涯行った行為(業)だけは、なくなることなく、因果の道理に従って自因自果で、その人自身に結果となって返ってくる。

人生の目的を説かれた仏教では、曽無一善と教えられる。1つの善も行えない私たちが後生へと持って行かねばならないものは間違いなく悪業のみ。そうなると結果はどうなるか?

後生なんてあるものか、と言う人がいる。

死んで見てきたのか、と言う人がいるが、それは後生はない、と言っている人にも言える事だ。後生はないと誰が見てきた事か?「ある」とも「ない」ともハッキリしない100%確実な後生を抱えているのに、呑気に生きている。

かげろうは明日を知らず、セミは春秋を知らない。
過去世も未来も知らず、生々世々、六道を水車のように流転しながら、それすら知りえない我々は、大馬鹿者だ。

因果の道理は三世を貫くというが、三世なんてあるものかと言っている人は、明日なんてあるのかと言っているカゲロウや、地上に出て僅か1週間の命のセミが春秋なんてあるのかと言っているのと同じである。結局は、目に見える尺度でしか物事が言えないのだ。

親鸞会で、生きる意味を教えられた仏教を知る事ができるとは何と幸せな事か。

三世を知らない私たちに、後生の一大事の解決こそが人生の目的だと教えていただけた事は、本当に幸せな事と思わずにおれない。

ではでは。

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