15 1月 2012

勝興寺の御正忌報恩講 御満座レポ(1)

Author: もん太 | Filed under: 真宗十派

もん太@射水市民です。

現在、京都の西本願寺では親鸞聖人750回大遠忌法要御正当が行われており、もん太も全日程というわけではありませんが、行ってまいりました。その辺のことは西本願寺の親鸞聖人750回大遠忌 御正当レポ(1)からレポートというかレビューを4回シリーズで当ブログで紹介してきました。

京都の西本願寺に行きますと、あの大伽藍に驚く人が多いようですが、富山県高岡市伏木には勝興寺という真宗寺院があり、その規模は、勝興寺を見たら本山(西本願寺)に行っても驚かないと言われるくらいのものです。そんな勝興寺では、1月の今ぐらいの時期に御正忌報恩講が行われるのですが「御満座(ごまんざ)という名前で知られております。かつては、1週間ほど連続で行われ、富山県外からも参詣者があり、大変な賑わいだったそうです。熱心な門徒が集って、夜通しでご示談といって信心の沙汰がなされたとも聞いております。

かつて、親鸞会の高森顕徹先生が学生服姿で行かれて真仮の水際をスパッと説き切られた寺としても知られていると思います。

昨年、平成23年1月15日にも、もん太は勝興寺の御満座に行きましたが、その時の様子は勝興寺の御満座に見た本願寺衰退の原因に書いてありますので、ご覧ください。

今年も1月14日〜16日の3日間、行われると聞きましたので14日と15日に様子を見に行ってきました。

昨年は大雪の中での勝興寺の御満座でしたが、今回は寒いものの天気が良かったです。射水市から車を走らせて勝興寺への道の入口にある伏木駅に辿り着きますと、

伏木駅(Photo by 親鸞会)

勝興寺での御満座が始まる前の伏木駅。天気も良く、実に静かである

人気が感じられないくらいに静かでした。かつては、御満座に参詣する為の人で賑やかだったであろうに……。昨年は、この辺に勝興寺の交通整理の人でも立っているかと思って来てみたところ、誰もおらず心配したくらいでしたが、今年も誰も立ってないようでした。もん太だけが、空しくカメラを構えておりました。

そして、道路から伏木駅のロータリーへ入る部分には、

御満座の看板(Photo by 親鸞会)

伏木駅前には「御満座法要厳修」と書かれた看板が設置されていた

御正忌報恩講 御満座法要厳修

と書かれ、日程が記された看板が立っておりました。3日間あるうちで2日間が土日ですから、多くの方がご縁を結ばれそうです。

……と思って勝興寺の門前に到着してみたところ、

勝興寺の門前(Photo by 親鸞会)

勝興寺の門前。以前は、ここに多くの屋台などの出店が並んだらしい

あれ?誰もいない。門の中に数台の車が見えるけど……。もう、皆さん、寺に入られたのでしょうか?昨年と同様に勝興寺内の駐車場に車を停めて、カメラを持って本堂へ向かってみた。

すると、既に数名の門徒さんがおられて始まるのを待っていました。そういえばアレはどうなった?

御満座の案内

勝興寺の公式HPでは「デカローソクを見にお参り下さい」と太字でPR♪

そう、勝興寺の公式HPでは、なぜか14日しか案内されていないんですが、勝興寺と言えばデカローソク!法話よりも「デカローソクを見にお参り下さい」と太字で熱烈にPRされている。法話を聞きにお参り下さい、ではないのがミソだ。そのデカローソクなんですが、

デカローソクの点灯(Photo by 親鸞会)

午前の部が始まる前に名物のデカローソクに火が灯される

もん太が入った時に、係の人が脚立を使って点灯されていました。さて、このデカローソクはこの御満座で何を照らすのでしょうか?

ちなみにもん太が到着して、読経などが行われている間の参詣者はこんな感じ。

本堂(Photo by 親鸞会)

勤行中の本堂の様子。イス席が基本らしい。参詣者もまばらだった

親鸞会では、足の都合の悪い人を除けば正座での聞法が勧められています。その方が、真剣に聞けますからね!しかし、勝興寺では、西本願寺の大遠忌同様に基本はイス席という状態です。イスに座れなくなったら仕方なく畳に正座という感じです。それにしても、土曜日だというのにまばらですね。

そうしている間に長い読経などが終わり、説教の時間になりました。昨年、もん太が来た時には実にやる気のない布教使が立ってガッカリしましたが、今年は本山で親鸞聖人750回大遠忌法要の御正当が勤められている中の御満座ですからね。どんな説教が聞けるのか、大いに期待したいものです。

……で、この日に説教した布教使さんは明覚寺の住職をされている林要昭という方。どっちが副業か知りませんが、高校の英語教師でもあるようです。

林要昭(Photo by 親鸞会)

初日の説教を担当した高岡市の明覚寺の住職・林要昭氏

前半50分で休憩を10分入れて、後半が25分という感じでしたので、だいぶ話されましたね。可能なら全部、書き出してアップしたいところですが、なんせ長いので部分的にアップしてみたいと思います。恐らく他力の念仏ということを話したいんだと思いますが、今の本願寺布教使が、どんな説教をするか興味のある人は、読んでみてください。非常に長いので忙しい人は、テキトーに読み飛ばしてして、次のところに行ってくださいね。

「もろもろの聖教を読み、ものを知りたりというとも、一念の信心のいわれを知らざる者はいたずらごとなり」という500年前の蓮如上人のお言葉と何か似たようなことをやっているんですよ。

えー、非常に時間をかけて何かした割には、外国の高校生にも負けるわけですよ。勝つ部分もあるかも知れません。知ってる単語、どっちがでかいあるといえば、きっと私の方が知っていると思います。16〜7の高校生にはきっと負けない自身があります。知っている単語だけならね。だけれども、それをきっちりと人に意志を伝える為に使い切っているかと言うと、これは無理です。無理ですね?

あのぉー、そういうことの似たようなことを言うと、皆さんだって日本語どこで習われました?えー、学校でという人はおられないですよね?えー、お顔を見ただけでは分かりませんけども本当は国籍はブラジルでーす、とか、韓国でーす、とか、中国でーすという方はおられますかねぇ?そういう方が日本語を学ぶのは大変だそうですよ。途中からしても、ところが、私たちは小さい頃にですよ、お母さんから「はい、今日は形容詞の日だよ」「今日は形容動詞の日だよ」「今日はラ行変格活用の日だよ」「五段活用は今度やるから、まず下二段活用から、下一段活用から」……そんな何かワケの分からんことを言うてね、お母さんが「まあ、そこに座られ」と言って「今日は日本語のレッスン」と言って、そんな家はないはずですよ。いつの間にか覚えましたね?いつの間にか覚えている。

どうして?耳から入って、日本語という言葉の仕組みがいつの間にか皆さんの心の中をガッチリとらえて、皆さんの心の中に住みついてしまって、そして気がついたら、もうそこから口をついて出てるんですよ。ねぇ?そうですよね?3歳にもなると、もう、かなり憎たらしいことを言うじゃないですか?どこで覚えてきたのかねぇ?そんなもん教えている学校、まだないはずなのにねぇ?「母ちゃんのバカ!」って言ったりするでしょう?それがどこでどうして考えたのか、本当に不思議なことなんですよ。私たちが言うのも変ですけども、そういう言葉は、人間は言葉をどのように覚えるのかなどと言うのも、面白い研究らしくてですね、多くの学者さんが取り組んでおられますよ。まあ、今一番ね、何といいますか、皆さんが納得していらっしゃる説はですね、こうなんですって。

私たちの頭は非常に柔軟でしてね、最初に飛び込んだ言葉や、相手が何かを言おうとしている、その気持ちがですね、頭の中に自動的にしみ込んで来て、頭で勉強して作ったんじゃ部分に染み付くんだそうです。えー、勉強と関係ない所に染み付いていくので、そのまま何かこう印刷したような、コピーしたような形になっていって、心配しなくても、難しいことを習っていないはずなのに、かなり難しいことをちゃんと正確にね、人はしゃべれるようになるという、こういうふうなことなので、今一番の最新の学説なんだそうです。

興味のない話をしましたかも知れませんけど、こういうのに名前がついておりましてね。えー、まあ「ユニバーサルグラマー」と、ちょっとカタカナの言葉でございますけれども、ユニバーサルグラマーっていうのは、どの人間の、どの人種のどこに生まれ育ったというのは関係なしに、人の頭は相手の言うことを染み込んで分かるという仕組みがあるということなんだそうですね。ユニバーサルグラマー。

もうちょっと難しいことを言う人は、Language Acquisition Device。LADと言うんだそうですけどね、そのLanguage Acquisition Deviceというものが、どの赤ちゃんにも、どの赤ちゃんにも生まれ備えておって、そこに言葉が沁み入っていって、いつの間にか周りの人と同じものが形成されていくと、こういうことを今、興味のあるなしとは別として、最先端の考え方として人はこうやってて言葉が身に付いていくのだ、と言われています。

ですから、耳で聞くことが大事なんだよーと言って、今、これもねテレビなんか見られますとね、興味がなかったら見落としますけどね、聞くだけの英会話とかね、聞いているうちにスーパーラーニングで分かるようになるとかですね、色んな有名な方がですね、出てこられて、宣伝しておられるのがあります。それは、ある意味正しいです。ずーっと聞いていれば耳に染み込んで、そして、ちゃんと話せるようになっていく。正しい考え方ですね。最新の理論に基づいていますから。でもね、みんな買った人がみんな上手くなるかと言えば、そうではないんですよ。なぜかと言うとですね。聞き方がもう変わっているんです。頭で聞くようになっているんです。今のは主語どれや?動詞どれや?目的語どれや?今のはどの単語やったん?もういっぺん調べてみてという、まあそれは、それで正しい勉強の仕方なんでしょうけど、これが頭を使って入ってくるのを邪魔している勉強の仕方なんです。こういうことをし始めるのは、人間10歳を超えると頭が良うなりましてね、自分で納得したり、自分で考えにゃ入らんようになっていくんだそうですよ。で、言葉の勉強をしている人に言わせますと、やっぱり10歳前後がギリギリだそうです。これを超えてしまうと、頭の中がちょっと、急に浄土真宗の言葉を使わせていただきますと、自力作善に変わってしまっておりますので、他力本願が沁み入ってくるのを、バチッと止めてしまってですね、もう無理だそうです。

で、さぁ、どういう意味なのかちゃんと説明してもらわにゃ分からん、というヤツですよ。ですから、モタモタ言わんと見て覚えろは、もう通用しないです。

で、もう1つですね、関係ない話かも知れませんが、関係あると思って話をしますが、頭の中に何でもかんでも入ってくると、危ないんですよ。どんどんどんどん侵入してくるからね。ですから、我が頭を守らんなんからね。人間はある時に、ブロックをかけて、聞こえんがにするがです。だって、日本語も分かるようになったら、ドイツ語も分かるようになったら、フランス語も分かるようになったら、英語も分かるようになったら、これ困るんですよ。考える道具がいっぱいありすぎてね。頭混乱して、私たちの1500ccぐらいの頭では、どっかで止めんなんがです。ですから、1つ道具立てがが沁み入ってきて出来上がったら、もう止めてしまうんですね。そしたらその部分はもういらなくなったからと言って、使わなくなるんです。使わなくなったらできなくなるでしょ?皆さんもちゃんと、私もそうですけど、歩いていますけど、30日以上入院しとってみてくださいよ。されたことない?ありますよね?ある人はね?そしたら立てんようになりません?筋肉落ちてしまってね。足使っていないから、リハビリということをしないと歩けんことが始まります。ですから、ある年から上のなかなかリハビリに時間がかかるお歳を超えた時に「転んじゃいけない」と言われるじゃないですか。ね?今度リハビリをすのに非常に苦労と時間とかかるので、どうかするとそれが原因になって、もう歩けなくなりましたとかね、そんなことが怖いですよね?ま、それと似ているんじゃないですかね?もう使わなくなったらね、いらなくなるんですよ。

ですから、頭の中をこう見ても分かりませんけど、学者さんの人に言わせると、言語が分かる部分は10歳ぐらいから急速に消えていくんだそうです。消えてしまったらね、聞いたら分かるかというと、もう無理なんですね。だけどこれは、個人差があるんですよ。個人差があるんです。20歳過ぎても、その部分がしっかり残っている人もいっぱいおられるそうです。いっぱいと言っても10万人に1人くらいはあるそうです。だから、高岡市で2人ほどおられますよ。富山県なら11人ほどおられるんですよ。そんなことなら全国にいっぱいおられるんです。私がこんな英語の商売をしておりますとね、今まで私の57年間で1人だけ会うたことがあります。日本人で日本でしか勉強していないのに、海外にしばらく渡って帰ってきたらですね、アメリカ人にも負けないような発音に変わっておられました。真似しているんじゃないんです。一生懸命勉強して身につけたんかなぁと思って、よ〜っくそのお嬢さんを観察したんですが、違いますね。完全にアメリカ人と同じ発音が、同じ言葉の並び方でバーッと出てくるんです。これ何百年練習したら、こんなんなるんかいというくらい上手なんですが、本人に聞いたところが驚きました。ある朝起きたらしゃべれるようになっとったようです。「な〜ん、私、勉強した覚えない」「なんか、どんどんどんどんしゃべれるがで、仕方ないやないけ」ちゅうがです。こういう方が10万人に1人の非常に希有な珍しい言語の部分が残った方だと学者さんは言われます。私もそうなんかなぁと思うしかありませんけど。

説教中の本堂(Photo by 親鸞会)

説教中の本堂の様子。話の内容が内容なので参詣者もダラダラしている

さて、こんな話はこれくらいに致しまして、如来様が私どもに届けようとされる御本願も、耳からいつの間にやら侵入してきてですね、逃げても、隠れても、嫌がっても聞こえてくるじゃないですか。聞いてるうちに心のどこかの部分に住処を得てですね、そこでシッカリと根を下ろしてくださるんですよ。ですから、私のようであり、私ではないんですね。もう、この中に入り込んで、沁み入って、住みついて、もう絶対にお前を取り逃したりしないぞという、これが御本願、如来様のお願いなんです。しかも、私が作ったお願いでは絶対にありませんからね。これは非常に強力な力なわけですね。強力かどうかは、私の頭で考えて、頭で判断すると、また分からなくなりますが、だけど、ありとあらゆるこの仏教界の仏さま方がね、第17願ってお聞きになったことがあるでしょ?諸仏称名の願と申しましてね。お念仏こそが最高のものの伝え方であると、お念仏を通して必ずこの私たちをですね、素直さがないような、逃げて隠れて嫌がるしか能のない私たちが、よーくよく考えてみると仏さまになりたいなどという心も一切ない私たちが、いつの間にかここに取り込まれて、気がついたらこの口から「われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀仏、われを救うの弥陀の呼び声」と聞こえてくる。私が言うたがだけども、私の口から聞こえてきたという、この独特な宗教的なものの見方、考え方が染み付くわけなんです。

ねぇ。あまりにもちょっと突拍子もない例かもしれませんけど、自転車に乗るとか、泳げるとかいうのはですね。習ったもんじゃないんですよ。体が覚えていることなんです。ですから、まだ最後の第4章と第5章を読んどらんからプール落としてくだされると溺れてしまうがですよ、という、そんな人はおらんですよ。泳げる人はボチョンと落とされても、どうもない。だって、生まれてほんの1年も経たん赤ちゃんでも、目を開けてね、水吸わんと喜んで笑いながら泳ぐんだそうですよ。だから、何か話が違うかも知れませんけれが、私たちには頭でない部分とというのはですね、随分考えなんならん時代に、今、なってきているんじゃないでしょうか?人類の文化とか、知恵とか知識とかですね。この壮大な文明というのは、まあ考えてみると、みんな私たちの頭がですね作り出してくれた世界でしょうね?ですから、その根本的な所にですね、光に当たって反省できるかできないかなんていうのは、よく哲学の方がね、考えることですけども、そういう中にあってからこそ750年のですね、節目を迎えた浄土真宗、親鸞聖人の大遠忌法要の時にですね、親鸞聖人のお感じくださった、法然上人んからどうして、私共に是非伝えようとされた世界が、メッセージが、ますます光を増すんだろうと思うわけですね。

あんまり難しいことを私、分かりもせんのに言うとね、混乱してしまいますけれども、特に西洋の方は文化とか文明とか哲学とか知識というのは、どうも頭で考えられる傾向が非常に強いわけですね。ですから世界には素晴らしい善がある、人間が触らなくても自立的な善があるのではないか。すべて私たちの欲とか目的とか何かしたいとか、目の前のものから離れることのある、その心の自由が得られたら人間もともと持っていた自立的な自由、神が与えたもうた自由に到達できるのではないかとエマニエル・カントという人がですね、純粋に理性というものがあるんではないかと仰ったようです。違うかも知れませんよ、私の読み方がね。だけど、イヤイヤそうではない、人間の力で、最大の善、最高の徳をみんなで作っていける、文明は作っていける力があるのだと大昔のアリストテレスという方は仰ったんだと思いますね。また、いやいやそうではない、人間は最大の数の幸福の実現をして今一番何が必要か、一番みんなが喜ぶことに焦点を合わせて社会を動かしていけば大丈夫なんだ、などといったですねジェレミ・ベンサムなんていう方もおられるようですね。

また、時代が過ぎまして近年になりますと、実存主義とかですね、懐疑主義というか、皆さん、お読みになったことがあるかどうかですね、カミュという人のね『異邦人』という小説なんかではですね、今朝ママが死んだとかワケの分からんことが書いてあったりね、太陽がまぶしかったから隣の婆さん殺したとかですね、何をこの人たちは言いたいのかというと、人間なんて自分が考えたような規律とか規範とか善とか道徳とか、そんなものありゃせんのだと、そんなもん全て勘違いで思い上がりで、思い違いで、ないものなんだと。もともと。何を言っているのだ、世の中全て不条理で出来上がっているのだと、本当に何があるのか考えていこうと、実存主義はね今は非常に影響力があって、西洋哲学の人はある意味、出口がなくなっちゃっているんですね。人とは一体何かのかという、これは毛頭答えが出ないんですけども、ここでですね、

親鸞聖人は我々を、親鸞聖人が仰ったんじゃない。如来様の光が当たると我々は罪悪深重の凡夫であるという、この結論があるわけなんです。これは西洋の方々は悪というのは、皆、悪魔がいてですね、神に逆らって人間を引っ張り込もうとしている力と説明されることが多いんですけども、元々身に付いた八十億劫よりも積み重ねた罪咎という発想は、どうも他の外国にはないようなんですね。私たちの深い人間観というのは、親鸞聖人はですね言葉で言うと、私たちのことをこういう風に仰るんですね。「信心喜ぶその人を 如来と等しと説きたもう 大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり」と、私たちが如来様の御本願を心の底に住まわせていただいて、そこから見えてきたもので比較した場合に、あなたも私も仏さまであり、御本願そのものであり、大信心そのものであると、お互いを条件なしで尊敬しあえる考え方が、ここに出てきていると言われる方が多いです。

えー、私がこの間聞いた五木寛之さんという作家のお話でも、親鸞聖人の世界に貢献できるのはここであると仰っておられましたね。ここ、ちゃどこかと言うと一切の衆生は世々生々の父母兄妹なりと、関係ない人などと言うのはですよ、あり得ないという発想です。あなたと私は絶対に違うという発想ではないんですよ。

……という感じですね。

一番最初のところで「一念の信心のいわれを知らざる者は、いたずらごとなり」と言っておりながら、その一念の信心については触れておらず「もろもろの聖教をよみ、ものを知りたりというとも……いたずらごとなり」しか話をしていない。一念の信心どころか「耳からいつの間にやら」とか「聞いているうちに」……と、阿弥陀仏の一念の救いを、いつとはなしの救いに変えてしまっているんですね。何とも酷い。

そして、先ほどの説教の最後にこんなことを言っていた。

私たちは、頭で聞いて勉強しても少しは分かるようになりますが、それが進みすぎると、今度はこれが邪魔するわけですよ。ですから、布教使さんの色んな話を聞いてもですね、勉強として聞いたり、情報として聞いたりしますと、それなりに分かる部分もありますけど結局分からなくなってしまう。「何、言うとった?あの人?」ってね?「何やら、家族のことやら、違うたことやら」私たち布教使は得意ですからね。家族関係だとか実際の世の中で起こっていることに照らし合わせたようなつもりで、お話するのは結構慣れています。

だけど、それをお聞きになった人は「な〜ん、御本典の話でなかった」「な〜ん、和讃も出てこんだったし、教行信証の言葉も出てこんだったし。1つも有り難なかった」と言われることがあるんですよ。「もうちょっこぉ、気の利いた本の中の話を言われま!」「言葉説明しられま!」。なら、そんならということで、それをやりますと「な〜ん、分からんだ」「眠たぁ〜なった」と言われるし、どうせいちゅうがやちゅうことになってくるんですね。ここでも人の気持ちに合わせて、人の喜ぶものに第1の価値観を置くとね、フラフラフラフラ引っ張られて、あっち行きこっち行きで、な〜ん結局何も伝わらないことが起こりうるんですよ。

この部分を話している動画が、コチラ。

……何といいましょうか。

親鸞会は親鸞学徒の集まりですから、自分の考えは一切入れずにお経や親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を示して1つ1つ分かりやすくお伝えするのが本道と教えていただきます。それを真っ向から否定しているとは何とも情けないではありませんか。

浄土真宗で、聴聞する目的が明らかになっていないからではないでしょうか?聞いていて聞法の目的である後生の一大事の解決が全く教えられず、信心正因 称名報恩の教えがネジ曲げられている実態でした。眠たくなるからと言ってお聖教のお言葉を示さずに話をしてる布教使ですが、

居眠り(Photo by 親鸞会)

布教使が好き放題言いたいことを言っているから居眠りがひどい

ご覧のとおり、門徒さんは「そんな話を聞きに来たんじゃない」と言わんばかりに居眠りが酷いです。

折角、寒い中、長時間に渡って親鸞聖人の教えを聞きに来られた門徒さんがかわいそうです。親鸞聖人のお言葉についてお聞きしたいと来ても「そんな話したら分からんかったと言われるから」と拒まれては、門徒の皆さんはどこで聖人の教えを聞けばいいのでしょう?話をして分からんかったと言われるのは、話している者の理解不足であり、話し方が悪いだけ。

親鸞会では、お聖教のお言葉を出して1つ1つ聖人の教えをお伝えしているのですが、多くの方が真剣に聴聞されます。さて、本当の浄土真宗の話というのはどういうものでしょうか?

まさに、これが浄土真宗の本道ですね。

勝興寺で親鸞聖人の教えが聞けないとお嘆きの方は、親鸞会に一度来てみてください。仏法を求める目的からハッキリしますし、正信偈のお言葉から丁寧に詳しく聴聞できます。

かつては、ご示談といって夜通し、信心の沙汰が活発になされていた勝興寺の御満座ですが、それもなくなったので、門徒の皆さんがせめて本堂で正信偈の勤行をさせてもらいたいと説教の後に勤行をされていました。

正信偈の勤行(Photo by 親鸞会)

ご示談もなくなったので門徒だけで正信偈の勤行をするようにしたらしい

教えを聞きたくても教えが聞けない真宗難民がここにも多くいらっしゃいました。

一応、今回の御満座での林要昭氏の説教は下の動画で一通り聞けます。

いかがでしょうか?本当の親鸞聖人の教えが親鸞会でしか聞けないことが分かられることと思います。

続きの15日の様子はこちら→勝興寺の御正忌報恩講 御満座レポ(2)

ではでは。

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