もん太@射水市民です。
滋賀県守山市に落成した親鸞会のびわ湖守山会館ですが、この周辺は親鸞学徒の鑑である蓮如上人ゆかりの地です。
そんな訳で、前回からその御旧跡を巡っているのですが、まずは「金森御坊 〜金森の道西〜」として、蓮如上人のお弟子として有名な金森の道西について紹介致しました。その金森の道西と並んで、蓮如上人の片腕と称されたお弟子が、堅田の法住です。
親鸞会のびわ湖守山会館は琵琶湖大橋の東ですが、大津市堅田はその対岸です。琵琶湖大橋を渡れば到着ですね!
堅田の法住は、この琵琶湖西岸に強固な門徒組織を形成し、蓮如上人のご布教を協力にバックアップしました。その堅田の法住ゆかりの寺が本福寺です。
本福寺は、堅田の浮御堂の近くにあります。

堅田の浮御堂の門。入場料が徴収されます(汗)
琵琶湖の中にヒョイと突き出たのが浮御堂で、観光地として有名だそうですね。

琵琶湖と浮御堂。命名が分かりやすすぎます
この浮御堂の周辺は観光地として整備されているのか、観光駐車場もあり、町並みもそれなりに整備されています。
「湖族乃郷資料館」などというものもありますが、ちょっと入っていません(汗)。

堅田のストリート。左の湖族乃郷資料館などもあり、観光地となっている
その湖族乃郷資料館の脇に「蓮如上人御旧跡 本福寺」の案内が立ち、山門がすぐ近くに見えます。

湖族乃郷資料館の横から本福寺へ。蓮如上人御旧跡の案内がある
これが、堅田の法住ゆかりの本福寺です。本願寺派の寺院でした。
堅田の中心人物が、本福寺3代目住職の法住でした。法住が蓮如上人のお弟子になるや、瞬く間に、湖西一帯に親鸞聖人の真実のみ教えが拡大し、堅田門徒が形成されていました。
堅田で最初に本願寺と縁を結んだのは、法住の祖父・善道でした。善道は紺屋(染物屋)を商売にしていましたが、覚如上人のお弟子となり、本福寺を開いたのでした。しかし、法住の父である2代目の覚念は、浄土真宗を捨てて禅宗に改宗してしまいました。
そして、いよいよ、3代目・法住の時代になりました。
法住が17歳の頃、病気で寝ている時に、次のような夢を見たといいます。
薄い墨染めの衣をまとった貴い僧が2人、法住の家に入ってこられ、「お前は、何て愚かなのか」と言われながら羽ぼうきで仏壇を掃除された。すると、色々な虫が、はらはらと落ちてきた……。
夢の内容を語ると、母は、「その2人の貴い僧こそ、法然上人と親鸞聖人に違いない。父の覚念が、禅宗に改宗したのを、両上人さまが悲しく思われたのでしょう。病気が治ったら、必ず、本願寺へ参詣しなさい」と諭しました。
法住は全快後、友人を誘って、京都の本願寺へ参詣しました。胸躍らせ、訪れたはずなのに、法住が見た本願寺は、あまりにもさびれていました。その驚きを、次のように記しています。
「人跡たえて、参詣の人一人も見えさせたまわず。さびさび……」(本福寺由来記)
「その比、大谷殿様(本願寺)は、至て参詣の諸人かつておわせず。しかるに、仏光寺、人民雲霞の如これに挙。耳目を驚す」(本福寺跡書)
本願寺への参詣者がほとんどなかったのと対照的に、同じ京都にあった仏光寺へは、雲や霞がわくように、人が集まっていたとあります。この時、法住は、本願寺に見切りをつけ、仏光寺の門徒になってしまいました。丁度、蓮如上人がお生まれになる2年前、応永20年(1413)のことでした。
しかし3年後、仏光寺の内紛に嫌気がさした法住は、ようやく本願寺に復帰しています。ところが、真実の教えは聞けませんでした。落胆した法住は、またもや本願寺から遠ざかるようになったのでした。

堅田の法住ゆかりの本福寺。大きな寺院です
法住が、本当の親鸞聖人のみ教えに出会ったのは、それから、30数年後のことでした。35歳の蓮如上人が、堅田へ布教に赴かれたのでした。法住は54歳になっていました。探し求めた真実を知った喜びは限りなく、すぐに上人のお弟子になっています。
この時、蓮如上人は、まだ本願寺法主に就いておられなかったので、自由な布教が許されていませんでした。堅田で、本格的に活動を開始されたのは、43歳で法主になられてからでした。
堅田門徒を率いる法住は、蓮如上人の手足となって活躍し、急速に法輪が拡大していきました。
その本福寺の山門をくぐると、ここにも「蓮如上人御旧跡」の石標がひっそりと立っていました。

山門を入ると蓮如上人御旧跡の石標が立つ
この堅田で蓮如上人を語る時、忘れられないのが「寛正の法難」です。
かつて比叡山の悪僧たちは、法然、親鸞両聖人に無法な弾圧を加えました。親鸞学徒なら、悲憤の涙を禁じ得ない承元の法難です。
それから250年後、比叡山はまたも、急激に蓮如上人の前に立ちはだかりました。
当時の本願寺は、仏教界の中で微々たる存在でしかなく、独立寺院として認められていませんでした。比叡山延暦寺の末寺として、かろうじて存続を許されていたのです。その為、本願寺は、内陣に天台風の飾りをちりばめ、天台宗の経典や本尊を並べることを余儀なくされていました。
「このままでは、親鸞聖人のみ教えを徹底することは不可能だ。比叡山の支配から脱出しなければならない」と、法主に就かれたばかりの蓮如上人は、思い切って、本堂から天台色を一掃されました。「一向専念無量寿仏」を徹底された親鸞聖人のみ教えどおり、阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神の木像、絵像を焼却し、南無阿弥陀仏の御名号のみを御本尊とされました。それは、比叡山への宣戦布告を意味しました。
さらに、蓮如上人が法主に就任されてから4年後には、京都の本願寺では親鸞聖人200回忌法要が盛大に勤修されました。金森や堅田の門徒をはじめ、各地からの参詣者は数百人を超えたといいます。人影がなく、さびさびとしていた本願寺が、わずか4年間で爆発的に飛躍したのでした。その中には何と臨済宗の一休までもが参詣していたといいます。高田派や最大勢力を誇っていた仏光寺派から転ずる寺も続出し、本願寺は急激に発展していきました。それを比叡山が黙って見ているはずがありません。
寛正6年(1465)1月8日、比叡山の西塔に荒法師が集結し、本願寺への怒りをぶつけ、檄を飛ばし、本願寺破却が決議されました。
比叡山の不穏な動きを察知した本願寺は、まず、大勢の門徒で寺の警備を固め、あくまでも法論によって僧兵を屈服させ、追い返す準備を始めていました……が、襲撃は予想より早く、1月10日に150人ほどの僧兵が本願寺へ乱入しました。まだ、10数名の門徒が警備についたばかりで、全くの無防備です。
悪僧たちは寺内を手当り次第に破壊しながら、蓮如上人を捜します。何とか、蓮如上人は脱出され、近くの定法寺に隠れられました。親鸞聖人の御真影も危ういところ運び出されて無事でした。しかし、寺内のめぼしいものはほとんど略奪されてしまいました。
真っ先に駆け付けたのが堅田門徒でした。しかし、堅田と京都は20km以上離れています。襲撃には間に合わなかったものの、いち早く避難所の蓮如上人をお守りしました。
しかし、金森の道西は、上人の安否が分からず、方々を尋ね歩いていました。蓮如上人は「この有り様を見たら、道西はさぞ悲しむだろう」と思っておられましたが、やっとお目にかかることのできた道西は、
「あらありがたや、早仏法はひらけ申すべきよ」(御一代記聞書)
と喜びました。「蓮如上人が説かれる真実の仏法は、どんな財宝にもまさる宝である。善知識さえご無事なら、真宗が興隆しないはずがない」と、混乱の中にあっても、未来をしっかりと見据えていました。
4年前に高田派から本願寺に転じたばかりの三河の佐々木如光も馳せ参じ、法論に応じない比叡山の狙いは金、と見抜いた如光は、「必要な金は三河から取り寄せます。悪僧どもの足元にいやというほど積み上げてみせます。お任せください」と豪語し、即刻、三千疋(約180万円)を比叡山へ送り、暴徒を黙らせてしまいました。
表面的には、一応落着しましたが、蓮如上人は京都の町を点々として所在を隠されながらも布教は休まれません。上人の赴かれる先々に門信徒が群集し、ますます参詣者が増えていきます。
比叡山は黙っておらず、3月21日、再び本願寺を襲撃し、残っていた建物は完全に破壊されていました。
これを「寛正の法難」といい、蓮如上人51歳、法主就任後8年目のことでした。
蓮如上人は、この本福寺にも身を寄せられ布教なされたそうです。
その本福寺の今の本堂がこちら。

本福寺の本堂。境内いっぱいに松の枝が延びている
立派な松の枝が境内狭しと延びています。その奥に本堂が見えますが、火災のため、昭和37年にブロックを積み上げる方式で再建されたものだそうです。
その前に、蓮如上人像が雨ざらしで立っていました。

本堂前に蓮如上人像。雨ざらしなのが申し訳ない
そして、本堂の中に入ってみますと、今までの寺とは違って畳敷きではありません。

本福寺の本堂。椅子を並べる大前提なのか、畳敷きではない
恐らく、椅子を並べて法要をするのが前提なのでしょう。雰囲気としては体育館といった感じです。
ここでも気になるのが御本尊が木像であることです。前回の金森御坊でも書きましたように、親鸞聖人も蓮如上人も浄土真宗の正しい御本尊は御名号であり、木像や絵像は他流であると明言なされています。
法住でも、このようなエピソードがあります。
比叡山延暦寺からしてみれば、自分たちの膝元で本願寺が急速に発展するのは面白くありません。攻撃は蓮如上人のみでなく門徒にも及び、門徒の家を見つけると強引に押し入って御本尊を奪い、金銭をゆすり、家屋を壊しました。
門徒は比叡山の横暴を避け、蓮如上人のまします金森道場にあつまるようになりました。金森の町は堀や土塁で囲まれて、外敵の侵入を防ぐ構造になっており、町全体が大きな城のようでした。外道邪教の攻撃から身を守り、仏法聴聞のための町づくりでした。
本願寺破却の翌年、文正元年(1466)8月、いよいよ、比叡山の僧兵が金森を襲うというウワサが流れてきました。堅田からも、法住が援軍を引き連れて駆け付ました。
明け方、守山の日浄坊を主将とする300人余の暴徒が金森を包囲し、門徒の決死の防戦によって、蓮如上人は、かろうじて敵中を突破され、難を逃れられました。
上人の無事脱出を見届けた門徒衆は、果敢に打って出ました。日頃の鬱憤が爆発し、日浄坊の首級をあげ、2kmも追撃して13人討ち取り、門徒軍の大勝利となりました。
意気盛んに蓮如上人へ勝利のご報告に伺ったところ、上人は大変ご立腹になり「人を殺すとは言語道断だ。正法か邪法か、法論で決着をつけるべきなのに合戦に及ぶとは何事だ。すぐに、軍を解散せよ!」と厳命が下されました。これが、史上初の一向一揆といわれています。
その後、災いは堅田へ飛火し、金森の合戦で奮闘した堅田門徒を攻撃しようと、比叡山側の一派が動き出しました。門徒側も武装して法住の本福寺にこもり一触即発の状況となったものの、蓮如上人は武力に訴えてはならない、と厳しく戒められています。衝突は避けねばならないと、法住は80貫文もの銭(約500万円)を山門に積み上げました。和平への意思表示です。
比叡山の態度は一変しました。押したり、引いたり、懐柔したり、政治力を駆使しなければ、この乱世に聞法の環境を守ることはできません。
法住は、和平交渉に比叡山へ登りました。根本中堂には全山の大衆(僧)がつめかけ、「本願寺は邪法である。何故、新たに名号を本尊とし、正法を乱すのか」と怒号が飛びました。
法住は、さっと立ち上がり、柱に御名号をおかけし、雄弁をふるいます。
「我ら在家の者は、罪深く、学もない凡夫である。出家して修行に身を投じることなど到底及ばない。しかし、阿弥陀仏は、このような罪悪深重の凡夫をめあてに本願をたてておられる。故に、我らは、阿弥陀仏一仏を尊崇し、御名号を本尊としているのである。それを、なぜ、邪法呼ばわりするのか」
経典の根拠をあげての法住の熱弁に、さすがの荒法師も静まり返り、正面切って反論できる者もなく、ついに、
「今かけらるるところの本尊、免し申す」
と言わしめました。1人の法住が、比叡山の大衆を法論で屈服させたのでした。この時、法住は70歳。まったく年齢を感じさせない活躍でした。
法住は、意気揚々と山を降り、蓮如上人も高く評価され、この時の御名号を下附されました。法住は畏まって拝受し、堅田・本福寺の御本尊としました。
しかし、今の本福寺の御本尊はどうでしょう?浄土真宗の正しい御本尊である御名号でなく、他流の木像になっております。蓮如上人、法住が見られたら悲しまれることと思わずにおれません。
その本堂の裏に、小さな「蓮如堂」がありました。

本堂裏にあった蓮如堂
中を見てみると、何やら石が置かれています。

蓮如堂の内部の様子。何が刻まれているかよく分からない
薄くて何が刻まれているか分かりませんが、命懸けで親鸞聖人のみ教えをお護りした堅田門徒の中心が本福寺です。御本尊から正して、本当の親鸞聖人のみ教えを再び明らかにしてもらいたいと念ずるのでした。
ちなみに堅田の法住に関しては、分かりやすい動画を発見しました!こちらもどうぞ↓
『蓮如上人と堅田の法住』
ではでは。
ツッコミ大歓迎!