26 8月 2014

金森御坊 〜金森の道西〜

Author: もん太 | Filed under: 真宗十派

もん太@射水市民です。

この度、滋賀県守山市に落成した親鸞会のびわ湖守山会館ですが、前回までは、その聞法道場の紹介をしてきました。

さて、浄土真宗の私たちが親鸞学徒の鑑と仰ぐ方が蓮如上人で、その蓮如上人の側近として有名な方が金森の道西ですね。

道西坊善従(Photo by 親鸞会)

「金森の道西」で知られる道西坊善従。名を川那辺弥七といった

道西は、先ほどの親鸞会のびわ湖守山会館からほど近い守山市金森町の生まれで、名を川那辺弥七といいました。

金森町(Photo by 親鸞会)

金森町の交差点

弥七は18歳頃から仏法の道に入り、親鸞聖人の本当のみ教えを探しまわっていました。

ある日、本願寺へ参詣した道西は、部屋住み時代の蓮如上人(当時35歳頃)にお会いして法話を聞く機会を得ました。

「このお方こそ、親鸞聖人のみ教えを正しく伝えてくださる方だ!」

と確信した弥七は、蓮如上人のお弟子になり、道西坊善従と名を改めました。この時、道西は既に50歳を超えていたそうです。

早速、道西は、自分の故郷、金森へ蓮如上人をお招きしてご法筵を開始したのでした。

道西は、蓮如上人より16歳年上であり、蓮如上人が、まだ法主に就かれる前ですから、その感激のほどが知らされます。

金森町の家並み(Photo by 親鸞会)

金森町の家並み。かつて、ここ一帯は仏法都市の先駆けだった

金森での反響も大でした。

「金森へ御方様(蓮如上人)を申入られ聴聞そうらいつるに、在所の人々も驚かれ、仏法も此時よりいよいよ弘まり申そうらいき」(天正三年記)

「在所の人々も驚かれ」とあるように、蓮如上人のご法話を聴聞した人々はみな、真実の教えに驚嘆したのでした。いかに、それまで、親鸞聖人のみ教えが正しく伝えられていなかったかが分かります。

法主になられる前の蓮如上人は、自由な活動は許されていませんでしたが、年に2〜3回は金森へ布教に赴かれたようです。

43歳で法主就任と同時に、蓮如上人は大々的な布教活動を展開されました。特に、近江の教化に重点をおかれたので、金森へも頻繁にお越しになられたに違いありません。

それを裏付けるように、数年間で、金森から周辺地域へ真実が拡大し、赤野井、荒見、山賀、手原など、次々に本願寺の道場(寺)が生まれています。中には、天台宗や真言宗、真宗木辺派などから改宗した寺も多く、蓮如上人のご教化により、門徒をひきつれて本願寺へ転向する他宗の坊主が続出したのでした。

かくして、金森方面には、確固たる門徒組織ができあがり、東近江衆と称されるようになったのでした。

その金森町を歩いていると、一角に「蓮如上人御旧跡」の石標を発見。

蓮如上人御旧跡(Photo by 親鸞会)

街角に「蓮如上人御旧跡」の石標

この細い路地を入っていくと、急に道幅が2倍くらいになり、その両側に寺院がありました。

金森御坊と善立寺(Photo by 親鸞会)

道を挟んで右が善立寺。左が金森御坊

この写真は、先ほどの石標から入ってきたのとは、反対方向から撮ったものですが、奥に見える細い路地が石標からの道です。これでは、右が善立寺で、左が金森御坊です。

まずは、善立寺から。これは真宗大谷派の寺のようです。古地図によれば、昔は「善龍寺」と書いたようですね。

善立寺(Photo by 親鸞会)

善立寺の山門。真宗大谷派の寺院だ

山門の脇には「金森 道西坊」の石標が立っています。山門は如何にも寺院のようですが、中に入ると広い庭園と、その奥に一般の家屋のような建物があります。

表札によれば、住職は川那辺さんだそうですから、道西の子孫ということになりますね。

その庭園の隅に蓮如上人像を発見。

善立寺の蓮如上人像(Photo by 親鸞会)

善立寺の境内にある蓮如上人像

そして、善立寺の道路向かいが金森御坊です。善立寺とセットのようで、管理は善立寺の川那辺さんが行っているようです。

基本的に金森御坊は施錠とセキュリティーがなされており、本堂どころか境内に入ることができません。中に入りたい場合は善立寺に行き、鍵を開けてもらう必要があります。

金森御坊の門(Photo by 親鸞会)

善立寺の向かいに金森御坊がある。普段は施錠されて入れない

この門の脇には「国指定重要文化財 懸所宝塔」と書かれてありました。これが目当てで来る人がおられるようですね。

懸所宝塔の札(Photo by 親鸞会)

金森御坊の門には「懸所宝塔」と書かれてあった

さて、セキュリティーを解除して頂き境内へ。団体ではなく、私1人でお邪魔したのですが恐縮です。

金森御坊(Photo by 親鸞会)

これが今の金森御坊だ

この本堂、瓦葺きなのですが、道西の時代は茅葺きだったそうです。この金森御坊にも蓮如上人と道西のエピソードが伝わっています。

ある時、道西が屋根に登り、新しい茅に葺き替えている所へ蓮如上人がお越しになられました。

上人は、何の造作もなく村人の中へ入られ、作業を手伝ってくださったそうです。その様子を『金森日記』は次のように記しています。

「道西、金森の道場のくずやぶき(茅葺き)をかえられ候いけるとき、上様(蓮如上人)わらを御取次候。道西うけとりて、おしいただき、上様(蓮如上人)御取次候ままにて、くずやぶきにならべられ候。善知識の遊され候御ことは、仏法方にかぎらず、畏り申されける」

蓮如上人が、屋根の上にいる道西へ茅を投げられると、道西のもとへは重い根っこの方が先に届きます。屋根を葺く時は、反対向きに直し、根っこを下にしなければ雨漏りがしてしまいます。ところが、道西は、茅を押し頂いて、蓮如上人から届いたままの方向で屋根に並べました。

善知識のなさることには、仏法に限らず、何事も「畏まりたる」と、無条件で従おうとする道西でした。

以後、金森道場の屋根の葺き替えの時は、必ず、茅の一部を逆に並べるようになりました。これを「蓮如上人葺き」といい、長く、仏法者のあるべき姿を示してきました。屋根が瓦になったのは昭和55年からだそうです。

金森御坊と石標(Photo by 親鸞会)

金森御坊の脇には「金森御坊」の石標が存在感を示す

そんなエピソードを思い出しながら、本堂へ案内して頂きました。

金森御坊の本堂(Photo by 親鸞会)

金森御坊の本堂。本尊は阿弥陀如来の木像だった

中は一般的な寺院の本堂ですね。ただ、ここで気になったのが御本尊でした。

浄土真宗の正しい御本尊は言わずと知れた御名号本尊です。親鸞聖人も蓮如上人も南無阿弥陀仏の御名号のみを御本尊とされました。

その為、蓮如上人は、

「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは木像』というなり。当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」(蓮如上人 御一代記聞書)

と、浄土真宗の正しい御本尊は御名号であると明示され、それ以外の木像や絵像は他流ですよとハッキリと示されています。

先ほどの道西のエピソードでは、仏法以外のことでも無条件で善知識のなされたようにせよと教えられています。まして「根ぶべきもの」である「御本尊」に関しては、計らいを入れずに無条件で蓮如上人になされたように御名号本尊でなければならないはずです。

蓮如上人は、善知識(正しい仏法の先生)の仰せには無条件で従いなさいと、

「蓮如上人へある人申され候、開山の御時のこと申され候、『これはいかようの子細にて候』と申されければ、仰せられ候、『我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも、開山のめされ候ように御沙汰候』と仰せられ候」(蓮如上人 御一代記聞書)

と、開山(親鸞聖人)が、なぜそのようなことをされたのかは分からないけど、何事も親鸞聖人のなされたようにしなさいとご教示なされています。納得できるから従い、納得できないことは従わない、では教えを求める必要が根本からなくなります。

更に、

「善知識の仰せなりとも、『成るまじき』なんど思うは、大なる浅ましき事なり。何たることなりとも、仰せならば『成るべき』と存ずべし。この凡夫の身が仏になる上は、さて『成るまじき』と存ずることあるべきか。然れば、『道宗、近江の湖を一人して埋めよ』と仰せ候とも、『畏まりたる』と申すべく候。『仰せにて候わば成らぬことあるべきか』と申され候」(蓮如上人 御一代記聞書)

蓮如上人が富山県のお弟子である道宗に、琵琶湖の湖を一人で埋めよ、と仰った時、道宗は「えーっ!そんなの無理ですよ」「せめて、1万人くらい動員して頂ければ……」とも言わずに「かしこまりました!」とだけ言っています。

親鸞学徒は、善知識の仰せに無条件で従いなさいと教えられ、そのようにしている親鸞会に対して、滋賀県の真宗大谷派の某僧侶は「カルトだ!」と批難しています。それならば、蓮如上人も道西も道宗もカルトになってしまうでしょう。自分の納得できないことには従えないと、善知識の仰せに真っ向から反発している方なんだなぁと残念に思います。

金森御坊も、蓮如上人の御旧跡、そして、その上人に無条件で従った道西を開基と言うのであれば、御本尊から御名号に戻すべきではないでしょうか。

金森御坊の蓮如上人像(Photo by 親鸞会)

金森御坊の境内にある蓮如上人像

さて、この金森御坊の境内にも、蓮如上人の大きな像が立っております。

その台座には、蓮如上人の有名な御文章5帖目1通『末代無智の章』が刻まれていました。

御文章(Photo by 親鸞会)

蓮如上人像の台座には、御文章が刻まれていた

「さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし」

小さな本願寺を、たったの一代で最大の仏教教団にされた蓮如上人の最大の武器は、この有名な御文章でした。実は、この御文章を最初に蓮如上人より賜ったのも道西でした。寛正2年(1461)、蓮如上人が47歳の時でした。御文章1帖目1通が、文明3年(1471年)なので、その10年も前に書かれたものなんですね。

その記念すべき、御文章第1号の全文は次のとおり。

「当流上人(親鸞聖人)の御勧化の信心の一途は、つみの軽重をいわず、また妄念・妄執のこころのやまぬなんどいう機のあつかいをさしおきて、ただ在家止住のやからは、一向にもろもろの雑行雑修のわろき執心をすてて、弥陀如来の悲願に帰し、一心にうたがいなくたのむこころの一念おこるとき、すみやかに弥陀如来光明をはなちて、そのひとを摂取したまうなり。
 これすなわち、仏のかたよりたすけましますこころなり。またこれ、信心を如来よりあたえたまうというもこのこころなり。
 さればこのうえには、たとい名号をとなうるとも、仏たすけたまえとはおもうべからず。ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけあることの、かたじけなさのあまり、如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なり、とこころうべきなり。
 これまことの専修専念の行者なり。これまた当流にたつるところの一念発起平生業成ともうすもこのこころなり。  あなかしこ あなかしこ
  寛正二年三月日」

まず、どんな罪深い人であっても、阿弥陀仏を信ずる一念で救い摂られることを明らかにしておられます。これを「信心正因」といいます。

次に、念仏は救いの手段ではなく、阿弥陀仏に救われた御恩を報じるために称えるものであることを鮮明にしておられます。これを「称名報恩」といいます。

しかも、親鸞聖人のみ教えは「平生業成」、死んでからではなく、現在ただ今、生きているときに救われることをハッキリ打ち出しておられます。

簡潔、明瞭な御文章の中に、親鸞聖人のみ教えの要が、すべて収まっているのです。

蓮如上人からのお手紙(御文章)を受け取った道西は、「これ聖教なり、これ金言なり」と言って感嘆したといいます。

ただの手紙ではなく、阿弥陀如来から頂いた「ふみ(手紙)」であるとして「御文」「御文章」と呼ばれるようになりました。

さて、金森御坊の門の脇に「懸所宝塔」と書かれていたものですが、何でも大正14年4月24日に国の重要文化財に指定されたものらしいので、ついでに見てみました。

懸所宝塔(Photo by 親鸞会)

境内片隅の「懸所宝塔」。重要文化財らしい

近くには、2種類の説明板がありました。

まず、守山市教育委員会が昭和57年3月に設置したものです。

「この石塔は、すぐ近くの小字『石の戸』にあったのを江戸時代末期に現在地に安置したという伝承をもつだけで創建及び由緒については詳らかでない。宝塔の構造は、基礎を四箇合わせてつくり、各面には二区分の格狭間(こうざま)を刻み、内に対面する孔雀文様を配している。塔身下部は円柱樽型とし、外周には扉形を浮き彫りにしている。塔身上部には高欄や柱が表現され、その上の石材には軒を形どり、反りの少ない屋根石、最上部には伏鉢、請花(うけはな)、水煙の表現をもつ宝珠をつけた相輪がのせられている。この宝塔のうつくしさ、規模はわがくにの鎌倉時代前期の宝塔の代表作として知られる。」

次に、滋賀県教育委員会が平成12年3月に設置したものです。

「この塔は、もと金ヶ森石ノ戸にあったものを江戸時代に現在地に移築したと伝える。塔に刻銘はないが、様式や手法からみて鎌倉時代後期の造立と考えられる。宝塔は花崗岩製で、基礎は四石からなり、各石とも格狭間を入れ、その中に孔雀を各面で向き合う形に浮彫りしている。塔身は、胴部と首部を別石とし、胴部に扉構えを彫り、首部は下段に縁高欄を、上段に柱を刻んでいる。軒は方形三段からなり、屋根は隅木、垂木、隅棟、露盤を造り出している。相輪は伏鉢上に、八弁の請花、九輪、請花、宝珠を刻んでいる。この宝塔は、基礎から相輪まで当初の部材がよく残っている。規模が大きく全体に均整がよくとれており、細部意匠も精巧で優美な塔である。当時の石工技術の優秀さを知ることができる宝塔として貴重である」

いずれにせよ、もん太には関心のないことなのですが、県と市の教育委員会がダブるように設置しているので、よほど立派なものなのでしょう。

しかし、私たち親鸞学徒が大事にしなければならないのは、重要文化財でもなければ国宝でもありません。常に何を心にかけねばならないのか、道西のエピソードを通して確認して今回の記事を終わりたいと思います。

『御一代記聞書』の中に、道西に関するエピソードがいくつか記されています。

ある時、蓮如上人が、法語を書いて道西に与えられました。道西の喜びは大変なものでした。

しばらしくて蓮如上人が尋ねられました。

「道西房、あの法語を、どのようにしましたか」

「はい、表具して、箱の中に入れ、大切に保管してあります」

「そんなことをしたのでは意味がないではないか。常に、見えるところにかけて、心を正し、聞法の指針にしなさい」

と戒められています。(御一代記聞書287)

蓮如上人から、直筆の法語を頂いたら、家宝のごとく大切にしたい気持ちがでてくるのは当然です。しかし、善知識が、私たちに御心をかけてくださるのは、

「一日も、片時も急いで、信心決定せよ」

以外にないことが知らされます。

また、ある人が、道西の家に行ったところ、玄関先で、まだ履物さえ脱いでいないのに、道西は客に仏法の話を始めました。そばにいた人が驚いて、

「何をそんなに急いでおられるのですか」

と尋ねました。すると道西は、

「吐いた息が吸えなかったら後生である。明日をも知れぬ無常の世の中だ。もし履物を脱がないうちに死去したらどうするのか。仏法のことは急がねばならない」

と答えています。(御一代記聞書198)

蓮如上人は常に、

「後生の一大事の解決を、急げ、急げ」

と教えられていました。道西は、上人の仰せの通り、自ら実践し、人にも呼びかけていたことが分かります。

まさに、朝には紅顔あって、夕には白骨となる身です。だれの人もはやく、後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのむ身に急がねばなりませんね。

金森御坊を尋ねて、蓮如上人とその善知識に純粋に従った道西の姿を思い出さずにおれませんでした。

ではでは。

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