もん太@射水市民です。
今年は親鸞聖人750回忌ということで、親鸞会でも750回忌のご法筵が勤修される予定ですが、先日もん太が京都へ行った時には、西本願寺が「親鸞聖人750回大遠忌法要」を勤めていました。その辺のことは「西本願寺の親鸞聖人750回大遠忌に行ってみた」に記事として書いてみたんですが、ちょっと書き足りないような気がしているので、まだまだ書き足したいと思う所存です。
……で、前回の記事の翌日は、朝から西本願寺に“お参り”に来てしまったわけですが、早朝というだけあって人通りが少ないですね。徐々に観光バスで乗り付けている各地からの門徒方も見えるのですが……。

西本願寺は古い寺院なので「国宝」と呼ばれるものも多いらしい
西本願寺は「古都京都の文化財」の1つとして、ユネスコ世界文化遺産として登録されていることもあってか、国宝や重要文化財といった「宝」と呼ばれるものが多いようでございます。中でも屋外にあって目立つのは「唐門」ですね。

西本願寺の外から「国宝」の「唐門」を見るけど柵で入れないのです
うん、門ですね。
国宝だからなのか、阿弥陀堂門や御影堂門のように通り抜けることはできないようですね。もん太の心のように固く閉ざされているようでございます。閉ざした上に周囲を薄い朱色の柵で囲まれているようですが、もはやセ○ムも真っ青な鉄壁セキュリティーと言えるでしょう(?)。
それにしても、柵が高くてよく見えませんね。隣にある門から西本願寺の境内に入ってみました。

西本願寺の唐門を内側から見てみると外側よりは見やすくなっています
おおっ、こっちは柵があるもののよく見えるようです。門の脇に、少々味のあるプレーヤーで唐門の説明が、同じことを繰り返し聞けと言わんばかりにエンドレスで流れておりました。まあ、何度聞きましても「唐門のウリは派手な彫刻だから、よっく見ていきなされ」という趣旨のことが言われているように感じましたので、彫刻をガッツリと見てみました。

西本願寺の唐門のウリは彫刻らしく、エンドレスで説明が流れていた
おおっ!派手ですね。
ただ、彫刻して金箔を張って終わりかと思いきや、ガンプラをこだわって作っていた、あの友人のように極彩色に着色されているようでございますよ。
有名なところでは「牡丹に唐獅子」「竹に虎」「麒麟に孔雀」「許由が頴川で耳を洗う故事」といったものがあるようですね。いずれも見事な彫刻なのですが、西本願寺のサイトなんか見ていましても、これらの重要文化財や国宝を恭しく紹介されているようです。しかし、親鸞学徒の「宝」といえば……、
「南無阿弥陀仏」の六字の御名号ですね。
……とは言っても、私たちには「南に阿弥陀仏が無い?そりゃそうだろ、阿弥陀仏は西方浄土に在すのだから……」なんて思われる方もいらっしゃるでしょう。たった六字の「南無阿弥陀仏」が「宝」と言われてもピンと来ないでしょう。そんな私たちのために蓮如上人は御文章5帖目第13通に、このようにご教導くださっています。
それ、「南無阿弥陀仏」と申す文字は、其の数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。
この「南無阿弥陀仏」の六字は、大宇宙の万善万行の結晶なのだと賞賛されておられます。
親鸞聖人は正信偈で「功徳の大宝海」と褒め称えられ、七千余巻もの一切経を説かれたお釈迦さまをもってさえも、晩年にはこのように仰っています。
若し広説せば百千万劫にも窮め尽すこと能わじ。
(「南無阿弥陀仏」の功徳は、何億年かかって説いても説き尽くせない。八十年の生涯では、大海の一滴も説けなかった)
そこまで仰られても「金は弥陀より光る」と言う人があるように、猫に小判、豚に真珠で私たちに南無阿弥陀仏が宝だとは、なかなか分からないものだと知らされます。
私たちが、救われるには、この南無阿弥陀仏を全領させていただくより他にありません。阿弥陀仏の本願である18願を、お釈迦さまが私たちに分かるように解説されたのが本願成就文ですが、そこには「聞其名号」とハッキリと示されています。名号を聞く一念で後生の一大事を解決して救われるのだと仰っているのです。まさに、大宇宙の宝の中の宝ではありませんか。
ですから、親鸞聖人も蓮如上人も、浄土真宗の正しい御本尊は御名号であることを明示され、実践されてこられました。蓮如上人は、ここまでハッキリと仰っています。
他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり。
さて、西本願寺の本尊はどうなっているでしょうか?阿弥陀堂のお仏壇を見てみました。

西本願寺の阿弥陀堂に安置されている本尊は阿弥陀仏の木像でした
……親鸞会では教えられた通りに名号ですが、西本願寺は木像ですね。
本願寺8代目法主の蓮如上人が、これをご覧になられたら、どれほど悲しまれるでしょうか?本願寺が「当流」ではなく「他流」になっている有り様です。今回、京都に行った時に浄土真宗本願寺派教学伝道研究センターが発行している某冊子の最新号に、親鸞会が名指しで批判されていました。その親鸞会を批判した西本願寺布教使のAサンは、
だいぶ以前、面白いことに親鸞会の方が来られましてね。お寺の本堂にお参りになられました。うちのご本尊は、お木像なんですね。そのお木像をご覧になって『あんたのところは木像ですか。 形像ですね。親鸞聖人はお名号でしょう』とおっしゃったんですよ。親鸞聖人は、『帰命尽十方無碍光如来』という名号をご本尊にされていましたからね。
と言っています。いくらなんでも「あんた」とは言わないと思いますが……。まあそれはそうと、それに対して、Aサンは、
『あんた、あれが名号に拝めなかったかね』と言いましたよ。お木像の阿弥陀さまの お姿を、お名号と拝めなかったのか という意味でね。それは、あなたに信心に培われた感覚がないだけのことです、と申しました
と答えています。
先の文章の下線部分に「親鸞聖人は、『帰命尽十方無碍光如来』という名号をご本尊にされていましたからね」と認めておきながら、木像が名号に拝めなかったのかと言い訳をしています。これを冊子のトップに自分の顔写真入り(しかも、カラー!)で出しているんですから恥も何もあったものじゃないですけど。そんなことを言ったら、蓮如上人のご教導はどうなるんでしょうか?このAサンは蓮如上人に対しても、このような暴言を浴びせているのです。
どうして、親鸞聖人や蓮如上人は御名号を本尊とされたんでしょうか?
もはや、Aサンは「教え」よりも自分の迷った考えが優先してしまっているのが分かります。教えに従ってこそ親鸞学徒です。親鸞学徒の鑑である蓮如上人は、このようにもご教導くださっています。
蓮如上人へある人申され候、開山の御時のこと申され候、「これはいかようの子細にて候」と申されければ、仰せられ候、「我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも、開山のめされ候ように御沙汰候」と仰せられ候。
どうして、開山(親鸞聖人)が、そのようなことをされたかを、蓮如も分からないけど、親鸞聖人のなされた通りにさせていただこう、と親鸞学徒のあるべき姿を示されています。その蓮如上人のお弟子に赤尾の道宗という人がいます。その道宗もまた、善知識である蓮如上人の仰せに無条件で従った人でした。
善知識の仰せなりとも、「成るまじき」なんど思うは、大なる浅間しき事なり。何たることなりとも、仰せならば「成るべき」と存ずべし。この凡夫の身が仏になる上は、さて「成るまじき」と存ずることあるべきか。然れば「道宗、近江の湖を一人して埋めよ」と仰せ候とも、「畏まりたる」と申すべく候。「仰せにて候わば成らぬことあるべきか」と申され候。
蓮如上人より「琵琶湖を一人で埋めてきなさい」と命ぜられたならば、「そんなの一人では無理です」「そのことに意味があるんですか?」などと一切言わずに「はい、承知しました!」と従いなさいと教えられています。Aサンの老眼には名号に見えるのかもしれませんが、教えの通りにさせていただくべきということが分からないのでしょうか?なぜ、自分の迷った考えを入れるのでしょう?
本尊とは根本に尊ぶべきものです。教えが狂っているから本尊が狂ってきます。まず、本尊から正すべきではないかと思うのでした。

西本願寺の親鸞聖人750回大遠忌法要は御影堂で盛大に行われていた
そんな西本願寺で、親鸞聖人750回大遠忌が勤められているのでした。
西本願寺には、「宝」と言われるものが多くありますが、両上人が教えられた「宝」はないようです。国宝や重要文化財を縁として参詣され、そこで本当の宝を知られるのなら、これらの「宝」もいいかもしれませんが……。教えが抜けてしまっているようですね。
親鸞聖人や蓮如上人の教えられたまま、御名号を正御本尊としているのが親鸞会です。教えを正しく聞けば御本尊も正しくなります。親鸞会で、親鸞聖人750回忌が勤修されます。親鸞聖人の教えを聞きたいと思われる方は、ぜひ親鸞会に参詣されてはいかがでしょう?
ではでは。
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